基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

昴を内田樹流身体論で読んだ

昴 (1) (ビッグコミックス)

昴 (1) (ビッグコミックス)

 時々小説や漫画を読んでいて、「眼の奥」で読むような読み方が出来るときがあります。これはいったいどういう感覚なのだろうと随分とよくわからなかったのですが、昴を読んでいたらなんとなくわかった気がします。多分、絵や文章を読んで、脳が感じた反応を見ているのです。絵や文章を見ているというよりも、絵や文章を見て反応している自分をジーっと見ている感覚に近い、「眼の奥」で読むとは、そういうことだと思います。昴は確かに「眼の奥」に訴えかけてくる作品でした。

頭を誰かから引っ張りあげられる感覚

頭を誰かから引っ張り上げられる感覚──、バレエでくるくると回る際にはよく言われる言葉だ。「昴」の中でも、最初に出てくる。これは身体論的に言うと自分ともう一人、自分を認識しているものがいることへの示唆である。ニーチェはこのようなことを言った。

 自分は道徳を知っていると思っている人間は道徳的ではない。それと同じように、自分はもう人間と思っている者はまだ人間ではない。人間とはおのれ自身がこれから創造されるべきものだということを知っている者のことである。

 しかしこの命題には致命的な背理があると、内田樹は指摘する。「人間とは、人間としておのれを構築できる者のことだ」と人間を定義したとする。すると、このとき、おのれ自身を人間として構築しつつある「いまだ人間ならざる者」は自分が構築しつつあるのが何であるかを知っていることになる。すでに人間とは何かを知っており、そのモデルを写しているのであるならば、それは既存のカタログの機械的模写にすぎず、けっして「創造」とは言われない。

 厄介な問題だ。もしカタログが無いとした場合、人間は人間をどうやって形づくっていいのかわからないはずだ。つまり人間は人間として自己を創造することはできないということになる。そこで生まれる解釈は、「時間の順序を狂わせて先取りすること」だ。自分がどのような人間になるのか、人間になろうとするものは決してわからない。しかしそこに、「すでにおのれを人間として構築し終えた者」がいると「仮定」した場合、話は異なる。

 進むべき道を知らないわたしを、旅程を熟知したわたしが領導し、「現在のわたし」に「未来のわたし」が進むべき道を教える。この背理に耐えることが、つまり、一人の人間のうちに「いまだ人間ならざるもの」と「すでに人間であることを完了したもの」が無矛盾に同居していることが、人間が「過程」であるためには論理的に不可避なのである。──死と身体 38P

 バレエで回る際に使われる、「頭を誰かから引っ張り上げられる感覚」とはかように複雑な物なのではないか。本当にその道で突き抜けた人間たちは、本人の意思を超越した何かに「やらされている」感覚があるという。好きだからとか、そういうわかりやすい理由はない。

共感能力

バレエで踊るためにはチームプレイが要求される。しかしその為に、相手を見ていたのでは話にならない。「見ないで動きを合わせる」ことがダンサーには求められる。いったいどうしてそんなことができるのか。「昴」ではそれを、「動く前に感じる」と表現している。ダンサーが動き出す瞬間、放つ‘’空気‘’には膨大な情報が含まれている。それを「感じる」のだ。この「共感能力」は、内田樹氏の身体論を読んでいれば必然的に知らされる概念だ。チームプレイを必要とするスポーツには、必然的にこの「共感能力」が深くかかわってくる。

時間の先取りについて

二巻にて、昴が車にひかれそうになったけれど相手の考えていることを読みとる場面がある。事故にあう一瞬前に、時間がスローモーションになって、相手の考えていることがわかるようになる状態を描写しているようだ。そこでは相手の顔を見ただけで、ハンドルを左に切ると判断した。しかし、なぜ、昴はそんなことができるのか。単に集中力の問題だろうか?

 恐らく、違う。振武館の黒田鉄山先生によると、素人が剣を抜くのを見ていると「そんなことをしてたら、夜が明けちゃうよ」というくらいに動作が緩慢に見えるといいます。もちろん実際の時間としては、鉄山先生と比べてもコンマ何秒といった遅れでしかないはずでそれ程の違いはない。じゃあ何故、それ程緩慢に見えるのかといったら、素人からしてみれば剣を握って抜くという一つの動作ですが、玄人はその一動作の中に数百ものチェックポイントを設けているそうですから。コンマ何秒かの間に数百の動作単位をチェックし終えている人から見たら、「どっこいしょ」と剣を抜きだす人の動きはスローモーションに見えるでしょう。

 武道的に速いというのは、実際には身体の「割り方」が細密であるということです。「速い人」というのは、時間を細かく進んでいる人です。(・・・)観客席でぼくたちがたとえばバレエを見ているときでも、踊り手によってそれぞれ時間の流れが違うことがわかります。群舞でも、あるひとりの踊り手にふと目が行ってしまうのは、その人だけ他の踊り手と時間の流れ方が違うからです。うまい踊り手だと、同じひとつのステップなのに、ずいぶん長い時間が流れたような気がします。腕を水平から頭上に上げるだけの動きでも、プリマ・バレリーナがすると、ひじょうに長い時間をかけて上がっているように見える。わずかな時間にすぎないのに、その動きを見つめながらずいぶん長い時間を過ごしたような主観的な時間感覚が残ります。
 美しい動きを見たときの感動は、たんにその人の筋肉や骨がやわらかいということでは言い尽くせません。違う時間の流れがそこで生じていて、自分の時間とその人の時間の流れの中に「ずれ」があり、それが「酔い」に似た感じを与えるわけです。時間がたわむのです。──死と身体 131P

 これが、時間を区切るという考え方。ほとんど変わらない動きをしている二人でも、時間の「割り方」によって見え方が全然違うという話です。次に、どうやって昴は「運転手が左にハンドルを切ると予測したのか」。合気道の極意は「先の先」だといいます。普通は「後の先(攻撃されてからそれに応対する形)」としかいいませんが、「先の先」は何かというと、自分が刀を振り下ろした先に相手がノコノコとやってくることだ。それが出来る人間は、他の人よりも「早い時間を先に体験している」人間です。時間の流れ方が根本的に違う。武道における達人や、昴のような人間は未来を先取りしているんですね。だから車がどう来るかも知ることができ、回避できる。別に科学的根拠は書かれていないですが、より説得力のある話が聞きたかったら内田樹の「死と身体」を読んでください。

期せずして最良の師を選んでしまうことについて

 物語の主人公昴は、自分でも意図せずして伝説の師匠を自分で選びとってしまう。マンガにありがちな「選ばれし主人公」のご都合主義のようにも思えるが、これについても内田樹は言っている。いわく、師にめぐり合うのも才能である。熊沢は「バレエは師匠がすべてだ」と言っている。それならば、バレエにおいて重要な才能の一つは「自分にとって最適な師とめぐり合う運命」ではないだろうか。内田樹氏の師匠であり武道家である多田先生という方は、大学在住時代に、その時代で五本の指に入るような武道家達(たしか二人だったか三人ぐらい一度に)に師事したという。それは「選びとる力」とは違う。なぜならば、師匠というのは、「自分に何を教えてくれるのかはわからない存在」である。目指すものがわかっているのならば、それを持っている人のところへ行けばいい。私自身はどこへ行くのかしらない。しかし師匠は知っている。そんな不利な状態で選ばないといけないのだから、それで卓越した師匠に出会うためにはもはや「運命」に頼るしかない。そしてその「運命」が優れている人間こそが、才能ある人間なのだ。「才能が、きっとすべてを肯定する」昴第19話のこのセリフにすべてが詰まっているような気がする。

絵の迫力

「昴」の絵からすさまじい迫力を感じるのは何故だろうか。踊っている昴の、感覚までもが伝わってくる気がする。というか、絶対に感覚が伝わってきている。踊っている昴の身体感覚が、絵を通してこちらに伝わる、そんなことがあるだろうか。世の中にはミラーニューロンなどというものもあるらしいから、ありそうな話ではある。ミラーニューロンとは何かというと、人は他人の動きを見ているときに、自分の脳内でも同じ動きを再現(ミラー)しているそうなのだ。だからこそ、お手本としてやって見せてもらった後(特に競技をしぼらない、何でもそうだと思う)、自分でもやってみると見せてもらっていない場合よりもうまくいくのである。それは何も生身の人間を見たときだけではなく、絵でも同じ効果が生まれるのではないか、とそう思ってしまう。「昴」の絵の迫力を見ていると。絵に引きずられるんです。自分には出来るはずの無い動きが、出来るような気がしてくる。

前未来形で語る

第四巻で、昴はローザンヌのコンクールで失敗するヴィジョンを全く持っていません。それは昴がそこがただの通過点に過ぎないことを知っているからです。こう語られます。

いつだってもっとはるか先を’’イメージ’’できる…… こういう人間こそ、夢を現実にしていくのかもしれない……!!

 武道における身体技法の要諦とは「わたしがそれになりつつあるものを、すでになされたものと思いなせ」というものです。それがどういうことかというと、今起こっていることを「それはもう過ぎたむかしのことだ」というふうに懐かしく回想することです。何故ならずっと先のことをイメージして、その舞台で踊っているということはつまりそれ以前はすべてうまくいっていたということなのだから当然です。夢を持つだけではなく、「夢はもう成っている」。そう確信できる人こそが、夢を成すまでの過程で動揺せずに着々と進んでいくのかもしれません。六巻の刑務所公演でのエピソード、あれも昴はやる前からわくわくしていましたが、それは将来システロンが「刑務所なんかで踊っていた時代からの奇跡の成り上がりストーリー」の主役だと想定して、今から行われる刑務所公演がそのスタートだと確信しているからこそのわくわくです。未来を確信した人間は強い。

 もちろん「夢はもう成っている」から何もしなくてもいいよ〜んとかいうヤツは妄想の世界に生きていることにしかなりませんけど。