基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

All is Love─かいじゅうたちのいるところを見たよ

 素晴らしい! 風景は美しくて、物語は色々な示唆に満ち溢れていて、とっても面白かったです。ぼくは最初この映画の予告を見た時は、かいじゅうのビジュアルがどうしても好きになれなくて観に行くかどうか非常に迷ったのですが、見て良かった。見てたらすぐに好きになりました。かいじゅう。あらすじを簡単に説明すると、空想が得意だけど、孤独になりがちな8歳の少年が家族に遊ぼう遊ぼうといっても家族だっていつだって遊んでいられるわけじゃなくて、でも友だちもいなくて、どこにも行き場のない感情が爆発した後に家出して、適当に船に乗ってどんぶらこしたらかいじゅうがいる島に辿り着いたよ! やったね! というお話です。

 主人公は8歳、当然子供です。やることも、言う事も、動作も、いちいち子供っぽい。「あー子供の頃って、こんなんだったな」という過去の経験が、いくらでもフラッシュバックしてくるような場面がいっぱいでした。たぶんこのお話を考えた人は、子供の時楽しかったことやつらかったことを全部この作品につぎ込んでやる!! とか考えながら作ったんじゃないかなと想像しながら見てました。凄くながーい坂にダイブしてごろごろと転がっていったり、一人が倒れこんだらみんながその上にダイブしてがははと笑い合ったり、こづきあいの喧嘩になったりした時の「バーリア!」「俺の攻撃バリア破るもんねー!」「俺のバリア無敵だからきかないし!」みたいな不毛なやり取りがあったりと。とてもここには書ききれないほどの、楽しそうな場面の連続に、思わず顔がにやける。

 少年には父親がいなくて、母親と年頃の姉がいます。母親は、自分一人で子ども二人を養わなければいけないので余裕がなく、姉は姉で年頃なので子どもの空想に構っていられない。年頃の子が大変なのは、その子自身というよりかは周りの環境が大変ということもあるのだ、と思います。何しろ自分だけじゃなくてまわりの友だちもみんな思春期なのです。思春期の自分が、同じく思春期の他者を相手にグループワークをこなしていかなければいけない。映画の中に、少年がお姉ちゃんの友人に泣かされてもお姉ちゃんは助けてあげられない場面があるんですが、友人の前じゃなかったら、きっと助けてあげられたんじゃないかな。ほんとは優しい子でも、優しさを発揮できない状況っていうのは確かにあるのです。

 子供の空想に付き合うというのはなかなか大変なことです。ぼくも小さかったいとこと遊んであげたことが何度もありますけれども、想像力が枯れた人間が、想像力と活動力、ほぼ無限の好奇心で動き回る子供についていくのはめちゃめちゃしんどいです。あっちへ走って行ったかと思えば「きてー!! こっちきてー!!」と叫んでへろへろになりながらついていくと体にしがみついてきて絶対に離さなかったり。ただ歩いているだけでもあっちへふらふらこっちへふらふら。まっすぐ歩けないのか!! とどうしたって思ってしまう。大人では子供についていくには、あまりにも多くの労力と、時間が必要で、でも普通に生きてきた大人には世の中にしがらみが多すぎてなかなか付き合いきれません。だからこそ子供には一緒に遊んでくれる同じ年頃の友人が必要なのだ、とこの映画を見ていてしきりに思ったりしました。

 子供であるということはいいことばかりではなくて、あまりうまくいかないこともある。それはこの映画でもちゃんと描かれている。自分といっぱい遊んでくれるかいじゅうたちと出会っても、みんな自分の都合を優先したりして結局喧嘩になってしまうのだ。思えば子供のころのぼくも喧嘩ばかりしていたように思う。ゲームに負けたら悔しくて仕方なくて喧嘩を吹っ掛けたし、内心バカにしていたヤツが自分よりも何かで秀でたときに自分でも抑えられない怒りが爆発してしまったりと何かと感情の制御が下手だった。たぶん子供はみんなそうなのだと思う。感情を抑えるすべをよく知らないのだ。そのせいで取り返しのつかない! とその一瞬思ってしまうような数々の失敗をしたりする。でも、ちょっとずつ、成長していくのだ。なぜなら子供だって自分が感情を爆発させてしまって、相手がつらそうな顔をしたらそれは「失敗だった!!」ってすぐにわかるんだから、ちょっとずつどうすればいいかを学んでいく。子供のある時期は、コミュニケーションを派手に失敗させてそこから学ぶ時期でもある。それはあるいは退化なのかもしれないけれど。でも退化であったとしてもそれはそれで悪くないな、と思った。そんなわけで最後の最後の場面がぼくは一番好きで、ううむと唸って映画館を後にした。