ついに、ついに文庫化いたしました。伊藤計劃の「虐殺器官」。真っ黒な、喪服のようなカバーに、大森望の涙なしには読めない必殺の解説がついて、すでに単行本で読んだ人でも、損をするような内容ではない、と断言できます。もう伊藤計劃の本は、永遠に増えることはないのですから。単行本を読んでいなくて、最近現実がヌルいなぁなんて思っている人にも是非読んでもらいたい。「虐殺器官」は「言語」、「自由」、「わたし」、「死」などなどをテーマにした骨太のSFであり、未来はこうなるかもしれない、という社会の未来予測に加え、中心となったアイデア、「虐殺器官」とはいったい何なのだろうか? を解き明かしていくミステリィの要素も組み合わさった、ジャンルを超えた傑作小説でもあります。
この「虐殺器官」には小松左京賞に応募し、最初は落とされてしまったという逸話があります。何でも、その時の評価では動機や、その人間がなぜその行動を取ったかの説明が欠けていると言う感じだったそうです。しかし伊藤計劃は人間を、恐らくあえて書いていない。その代わり、状況を書いている。状況を書いて、その状況の中で人間が何を考えて、どう行動するかを観察するようにして書く。その結果、普通に人間を書いていたのでは届かない場所にまで到達することが出来ている。第一長編である「虐殺器官」と第三兆編である「ハーモニー」が書いていたのは、そういった遥か遠くの未来のような現実だったりする。現実をいったん自分の中に取り込んで客観視し、それを出力した時により過剰に、よりSF的な形にして出している。そして、物語の主人公はその現実をあるがままに受け入れようとする。
現実をあるがままに受け入れるというのは、実際はひどく難しいことであるかのように思います。それは、この文庫版虐殺器官の解説を最後まで読めばおのずと理解できることでもありますが、「理不尽な死」を言い渡された時に、いくら状況を受け入れようとしても、それは受け入れられないのです。なぜなら「死」が何なのかわからないから。わからないものは不安だから。生前の伊藤計劃氏は、癌が進行中も常に笑いを忘れなかったと言います。しかしそれも死ぬまでずっと、というわけにはいかずに、ある時から悲痛な叫びが混じり始める。世の中にはどうやら、受け入れることが出来がたい断崖絶壁があるらしい、とぼくは今さらながらに思います。現実を「あるがまま」に受け入れるというのは、その断崖絶壁を超えていかなければいけない。そして、「虐殺器官」はそこを超えようとしたのではないか。
ぼくはこの「虐殺器官」は「ぼく」ことクラヴィス・シェパードが「自由を獲得」していくお話だと勝手に理解している。状況をあるがままに見据えて、残酷なまでな現実を目の前にして、それでもなおかつ「選択」するという苦痛と引き換えに「自由」を得るまでの物語です。ぼくは伊藤計劃の書いたものを読むと(それは例えブログのたった一つの記事だって同じ)何か刃のようなものを突き付けられたような気分になります。その刃とは、「オレはこれだけ真剣に世界を変えようとしているんだ、オマエはどうだ」というメッセージなのかもしれないです。というよりかは、作品を通して突き付けてくるのは恐らく、ぼくが普通に生きていたら絶対に気がつかないような「現実」なのだ。ぼくはその「現実」を知らないで、「支配」を受けていることにも気がつかずにのうのうと暮らしている。そんなぼくに対して、虐殺器官の中で、「こんなに過酷な状況で、決断を繰り返していきている人間がいるのだ」と突き付けて、現実を揺さぶってくる。ぼくはそれが、センス・オブ・ワンダーだと思う。
- 作者: 伊藤計劃
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2010/02/10
- メディア: 文庫
- 購入: 75人 クリック: 954回
- この商品を含むブログ (514件) を見る