基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

橋本治に関する最大の謎

 その不思議の第一は、ロクに知らないのに「なんとなく分かるような気がする」だけで、平気でとんでもないものに手を出してしまう事です。なんでそんなことが出来てしまうのかと言えば、それは「手を出した後で一生懸命頑張る」という前近代的な鉄則に私が従っているだけで、そう不思議なことでもありません──と、当人は考えています。そんなことよりも不思議なのは、ちゃんとした予備研究、あるいは勉強もせずに、「なんとなく分かるような気がする」だけのものに平気で手を出してしまう、そのことです。『ひらがな日本美術史』も『小林秀雄の恵み』も『竈変源氏物語』も『双調平家物語』も『広告批評』誌の時評類も、みんなそうです。だから、これを扱った五つの対談の中には、平気で「分かりません」「知りません」の語が登場してしまいます。ある程度のことをやっていながら、私にはその全体を包括する知識──つまり専門家であるために必要な教養が欠けているのです。「そのくせお前は、なぜ大それたことに手を出すのか? 出したその後でケロっとしているのか?」ということが、おそらくは「橋本治に関する最大の謎」です。私はそのように思っています。──TALK 橋本治対談集

私は何故橋本治に惹かれたのだろう

 これは最近出た『TALK橋本治対談集』と題された本の「はじめに」に書かれていた文章で、これを読んで自分の中で橋本治に一区切りついたような気がしたのでした。というのも、「なんで私はあんなに狂ったように橋本治を読み漁っていたのだろうか?」に一応の答えが出たからです。一時期私は橋本治をひたすら読んでいて、そして私が橋本治をひたすら読んでいたのは解き明かしたい謎があったからに違いがないのに、その謎がわからなかったのでした。小説を書き、批評をし、突然源氏物語を現代語訳してみたり、編み物の本を出してみたり、新書でわけのわからない本を出したりする橋本治を、一貫して追い続けることが出来たのは「橋本治」に興味があったからです。まあそもそもジャンルを横断して書きまくる、その特性に惹かれていたという事もあるのですが。普通物を書くときは、小説をのぞけば人それぞれ動機は違えど自分が「知っている」が他人は「知らない」ことについて書くものです。しかし橋本治は自分も「知らない」他人も「知らない」ことを書いていた。それはつまり世界を広げていく行為で、そこは凄く魅力的で、それが橋本治に惹かれる理由の一つでもあります。でも本当のところはもうちょっと別のところにある。

 解せないのは、なぜそんなに色々なものに手を出せて、それだけじゃなく完遂させることが出来るのか、ということです。『「なんとなく分かるような気がする」だけで、平気でとんでもないものに手を出してしまう』ところまではわかります。わたしだって絵なんて書いたこともないのに絵を書いてみたり、まるで自分が辿ってきた道と間逆のことをすることはよくありますから。その延長線上で源氏物語を訳そうとしてみたり、やったこともない編み物について書こうとしたりするところまでは理解できる。「ひょっとしたら面白いかもしれない」という好奇心があるから、という理由で説明できる。しかしなぜそれを「書ききる」ことが出来るのか。途中で諦めてもよさそうなものです。「あ、手を出してみるにはみたけど、やっぱりあんまり面白くないぞ」と。そういう「諦め」というか、「指向性」みたいなものが橋本治さんには見当たらない。編み物も源氏物語も平等的な熱心さで「理解」しようとする。わたしからすればなんでそんなに世界に存在する色々なことに好奇心を持って持続できるのかが一番の謎。恐らく橋本治さんは、私が知らないような「世界を隅々まで楽しむ方法」を知っているはず。それを、解明したいというのが私が橋本治を読むモチベーションになっているのかも、と読んでいて思いました。

TALK 橋本治対談集

TALK 橋本治対談集