基本読書

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世界の見方が変わる一冊。『たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する/レナード・ムロディナウ』

いやあ、これは傑作。素晴らしいです。昨日夜の三時ぐらいに半分寝ぼけながらお風呂で読み始めたら、あんまり素晴らしくて眠気が吹っ飛んでしまったぐらい。なぜヒトは「偶然」を「必然」と勘違いしてしまうのか? といったような「偶然」を分析的に扱った一冊。驚くべきはその具体例の多さと、それと比例するように用いられる数学的法則の多さです。

たとえば最初に挙げられている例として、パイロットの訓練生の教官のお話があります。教官は、今まで見事な操縦をする人の事は褒めてきたけれど、しかし次回はきまって悪くなる、という経験を覚えている。そして下手な操縦を訓練生がした場合に怒鳴りつけると、結果が向上する。以上の経験から「報酬は無意味であり罰はうまくいく」という「必然」が導き出される、としています。

しかし報酬は罰よりもうまくいくという動物実験の例もある。その矛盾を解消する為には、こう考えることもできると言います。

パイロットの訓練生たちは、みな一定の技術を持っていると仮定する。そして彼らは人間であるからして、好調であったり不調であったりということが少なからずある。もしある訓練生が、通常の時よりもはるかに調子がよくとてつもなくうまくランディングをこなしたとしよう。そうすると教官は彼を褒めるが、次の日の彼は平均的な能力に戻っているので一見したところ下手になったように見える。逆もまたしかりである。

またこういう例もある。「出版社はベストセラーを見抜けない」。誰もが知っているJ・K・ローリングの『ハリー・ポター』の最初の原稿は9社にはねられた。あの『アンネの日記』も複数の出版社にはねられ、ポール・オースターの最初の小説も出版社でははねられまくったそうだ。何が売れるか、ということを出版社は予測することはできない。それはほとんど「コイン投げ」と同じような物だと本書では言っている。

しかしそのような「コイン投げ」の舞台に立つこともできずに、最初に出版社からはねられただけで才能がないと誤解して消えていった何人ものJ・K・ローリングや、ポール・オースターがいるのだ、と思うとむしょうにむなしくなってくる。もちろん質も大事なのは言うまでもない。

ただ、もし仮に「Aという作品とBという作品が、まったく質が同じだとして」「二万人のお客に全員に一列に並んでもらい、各観客に対して順番にコインを投げ、コインのオモテが出たらAを、ウラが出たらBを買う」という実験をおこなうと、両者が抜きつ抜かれつしつつ売れ続ける確率に比べて、どちらか一方がもう一方より売れた状態が続く確率の方が88倍も高い。

ハリウッド映画会社の社長、デイヴィッド・ピッカーが語るような現状も、なんだか説得力を増す。「もし、私が突っぱねたすべてのプロジェクトに私がイエスと言い、私が採用したすべてのプロジェクトに私がノーと言ったとしても、結果はそこそこ同じだっただろう(p.20)」。

問題の核心は、「偶然」売れただけ、成功しただけ、あるいは失敗したという結果、そこに「必然」を見いだして、教訓を得ようとする私達の側にあるというのが本書の主張です。しかし偶然の中に必然、規則、パターンを見いだそうとしてしまうのは私達の本性であるともいう。であるなら、いったいぜんたいどうすればいいのか? どうすれば、私達は「偶然」を「必然」と勘違いせずに済む?

その為の第一歩は、それに気がつくことだ。確率は偏ることを知って、何かの事象を見た時にそれがどこまでが偶然で起こり得るのか、またどこまでが必然なのかをよく観察すること。そしてこれがたぶん一番重要なことだけれども、「前向きに歩き続けること」だ。世の中の大部分は偶然、コインの裏表のようなものに支配されているが、私達は幸いなことに「コインを投げるか否か」には制限を加えられていない。

 能力を成功へと結びつける綱は緩んでいる場合もあるし、ぴんと張っている場合もある。売れた本に高い質を見つけることは容易だし、本にならない原稿、安いウォッカ、何かの世界でもがき苦しんでいる人間に足りないものを見いだすことはたやすい。うまくいったアイディアはアイディアが優れていた、成功した計画は企画がよかった。うまくいかなかったアイディアや計画は考え方がまずかった、と信じるのはたやすい。そして、成功者からヒーローをつくりだしたり、失敗者を軽蔑の目で見たりすることはたやすい。だが、能力は偉業を約束してはいないし、偉業は能力に比例するわけでもない。だから重要なことはその方程式の中の別の言葉──偶然の役割──を忘れないようにすることだ。(p.320)

たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する

たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する