基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

若者殺しの時代

著:堀井憲一郎。尊敬するおちゃらけブロガーのちきりんさんが ここで→若者殺しの時代 - Chikirinの日記本の紹介をしていて、ほうほう面白そうですなと思って読んでみたら面白かった。2006年に出た本で、こうして古い本を紹介してもらえるのは機会として貴重です。みんな新しい本の書評しかしないので。

ちきりんさんのとこを読んでもらえればよくて僕がこれについて何か書く意味はないのだけど、まあ書く。
目次

第1章 1989年の一杯のかけそば
第2章 1983年のクリスマス
第3章 1987年のディズニーランド
第4章 1989年のサブカルチャー
第5章 1991年のラブストーリー
第6章 1999年のノストラダムス
終章 2010年の大いなる黄昏あるいは2015年の倭国の大乱

近代とは共同体が崩壊して個々人がばらばらになった時代であるとは各所で毎日のように耳にするものの、正直言って共同体が崩壊していくその瞬間をリアルに生きてはいない僕などは「そうか、近代とはみんながばらばらになってしまった時代なのか」と言葉上で納得しても実感として理解することは困難なのです。

本書が特異なのは、目次を読んでもらえればわかるようにその時代時代のイベントに目を向けて、いったい80年代から90年代を通して「何が起こっていたのか」をリアルに想像させてくれるところ。「個々人がばらばらになっていた」とひと言で終わらせるのではなく、「あの頃はこういう時代じゃった」というおじさんの昔話、そこが特別でした。

たとえば、コンビニが都心に進出してきたときの話。コンビニエンスストアを著者が初めて見たのは、1980年のときだそうです。最初は24時間営業といっても誰もが慣れていなかったので恐る恐るだったそうですが、80年代後半になるにつれて爆発的に増えていった。増えて行った先に起こったのが「お茶と水の有料化」

今の僕達からすればお茶と水が有料なのなんて当たり前で僕も当然のように買いますけど、しかし当時は違った。自動販売機にはジュースしかなくて、1970年代に数キロ歩く日本人はすべて水筒をさげていたそうです。水やお茶は自分で用意するか、共有施設のものを飲むしかなかった。著者の仕事場の先輩もお茶が売られ始めた時に「どうして茶に金を払わなきゃいけないんだよ」と言ったとか。今ではそんな事を言う人はいないので結構おどろきです。

 80年代をとおして、僕たちは僕たちの抱いていた幻想をひとつずつバラバラにしてお金にしていったのだ。何だってバラバラにできるし、何だってお金になる。それがおもしろかったのだ。p.92

いやはや、おもしろいですな。お茶と水が売られ始めたのも、便利さがお金になるとみんなが気が付いたからです。お金、というのがキイなんでしょうね。経済的な成長こそが正義だった時代に何が行われるかと言えば、何もかもをお金を得られるサービスに変えてしまうことです。身の回りにあるひとつひとつのもの、かつては共同体の中で「タダで」生まれていたものをねこそぎ経済のラインに載せていく。

そしていったん経済のラインにのったら、あとは徹底的な効率化の為に「システム」が敷かれる。すべてが流れ作業で行われるようになると、世界から人間味が失われていく。非常に単純でわかりやすい話ですなあ。本当はもっと複雑で込み入った話ですけど、こうやって説明してしまうと非常にわかりやすく感じられる。

最近はHMV渋谷店の閉店をこのシステムゆえの画一化に目を向けて語っている方などが居て→レーベル運営の悲喜交々:HMV渋谷閉店にまつわる僕の見解 - livedoor Blog(ブログ) システム化からの揺り戻しも起きつつあるのかなあと思います。

ただそうまとめてしまうことにも抵抗があって、複雑な物事を複雑なまま受け入れたいと思いながらも、それは難しくて今ここで書くようなことではなかった。とにかく本書は、「実感のわく共同体の崩壊」を味わえる一冊として大変面白かったです。

でも著者がイケメンで過去話にしょっちゅう「彼女が〜」という話題が出てきて読みながら何度も「リア充死ね!!1!」と思いました。

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

若者殺しの時代 (講談社現代新書)