基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

日本の弓術

『喜嶋先生の静かな世界』における各章冒頭の引用文にこの『日本の弓術』が元として使われており、そこから興味深くなって読んで見た。岩波から出た本で、最初に出たのは1936年だと思われる。著者のオイゲン・ヘリゲル氏が、日本の弓術を阿波研造氏に学びにいくところから話は始まる。とはいっても本書はたったの122ページであり、1ページの文字数も非常に少ない為さらっと読みこなせる。されど内容は濃い。

阿波研造氏はやはり1900年代初期の求道家らしく、とても厳しくかつ真面目な人間として書かれる。何度か欧米人に弓術を教えようとして失敗した経験から、著者に教えることを拒むが、日本の文化、特性を真に理解しようとする著者の熱意が伝わり、教えを授けることになる。

「弓術」といえば、矢を放ち的に当てるスポーツだという見方が大変だろうけれども、少なくとも阿波研造氏が教えていたころの弓道は違っていた、それはまさしく道であり、「当てること」に価値はなく、純粋に精神的な鍛錬に起源が求められ、「精神的な的中」のみを良しとする。

弓と矢は、かならずしも弓と矢を必要としないある事の、いわば仮託に過ぎない。目的に至る道であり、目的そのものではない。この道の通じる目的は、仏教でいうところの悟りに近いものであると思う。『もしリアルパンクロッカーが仏門に入ったら』でいうところの、禅僧修業が目指す「全体ドカーン」である。

全体ドカーンとは要するに、禅を繰り返し繰り返し行う事で、たとえば目の前にリンゴがあるとして、自分とリンゴの境目がわからなくなることを言うらしい。遠くの物も近くの物も全てが自分と一つになり、世界が自分であり自分が世界であると言う経験──、そういうものを「全体ドカーン」ともし仏では言っており、恐らくではあるものの、弓道が目指すものであるように思う。

「的を狙わずに中てよ(これが多分仏教的な自我を消すことで全体ドカーンを起こす修行だと思う)」と阿波研造氏は執拗に言い、著者はそれに「狙わなきゃ中たんねーだろーがボケェ!!」とつっかかりうづけるのだけれども、とうとう最後に阿波研造氏がとった行動が凄まじい。

夜の九時ころ、著者を家に読んだ阿波研造氏は、夜中の道場に行き蚊取り線香のつたない火を的の前の砂に立てた。射る場所へ戻る二人だけれども、当然蚊取り線香はほんのすこし光るだけで非常に小さい。これを阿波研造氏は第一の矢で的中させ、続く第二者で第一の矢の筈に中ってこれを真っ二つにしていた。見えなくとも、中てられたのである。

それ以来、私は疑うことも問うこともきっぱりと諦めた。その果てがどうなるかなどとは頭をなやまさず、まじめに稽古を続けた。夢遊病者のように確実に的を射中てるほど無心になるところまで、生きているうちに行けるかどうかということさえ、もう気にかけなかった。それはもはや私の手中にあるのではないことを知ったのである。

古き良き日本の師と、その弟子の在り方みたいなものがあって、大変面白かった。同時に本書が現しているのは、西洋の考え方と日本の考え方の違いであるように思う。著者は、最初「狙わずに中てる」という論理的でも合理的でもない考え方が理解できないでいる。

しかしそのような思考の中にこそ、武士道精神の根元があると、著者は気づいていくのである。『その最も純粋な象徴は、朝日の光の中に散る桜の花びらである』

『仏教ならびにすべて真の術の練磨が要求する沈思とは、単純に言うならば、現世および自己から訣別ができ、無に帰し、しかもそのためかえって無限に充たされることを意味する。』

日本の弓術 (岩波文庫)

日本の弓術 (岩波文庫)