森博嗣新刊。帯に「自伝的小説」とあったのだけれども、「え?すでに水柿君シリーズっていう自伝小説みたいなものがあるのにまた?」と一瞬目を疑いました。同じものを二回出すような作家とは認識していなかったので。実際、自伝的な要素はかなりあるものの、そこが主軸ではないことが分かります。
森博嗣の奥さんであるささきすばる氏を模したであろうキャラクター、清水スピカや、読字障害持ちである森博嗣そのままの幼い時から文字が読めずに本を読むのが嫌いだった主人公、橋場くんであったり、大学に入ってからの研究分野と、時代が森博嗣が大学生の頃と恐らく重なっているであろうこと、などが主な自伝的要素でしょうか。
喜嶋先生、というのがお話の中心となって展開します。橋場君は大学に入り、喜嶋先生に師事することによって「研究」「学問」の奥深さを学び、そして、研究者の誠意を極限まで煮詰めたかのような純粋な存在への憧れを芽生えさせていく。ひょっとしたら森博嗣先生も、自分が大学生の時に「こんな先生がいたら」という理想を持っていたのかもしれません。あるいは本当にいたのかも。
研究の具体的内容をあまり明らかにしないながらも、「研究の興奮」を伝えるという点において、碁がわからなくてもゲームの熱さだけで素人を燃えあがらせた「ヒカルの碁」を思い出しました。実際本書を読んでいると、とにかく何かを学びたくて仕方がなくなってくる。それも、特に科学分野の。
科学、学問が素晴らしいものに思えてくる理由の一端に、やはり喜嶋先生の存在がある。森博嗣せんせーの書く「天才」はS&Mシリーズに続く一連のシリーズに出てくる真賀田四季を筆頭にして、だれもかれも凄く魅力的だけれども、この喜嶋先生もなかなかのものである。
僕らは多かれ少なかれ関わる人間がいて、話す言葉には感情が載せられている。たとえば友人が書いた論文が間違っていたら、それを個人的に指摘するだけならばまだしも、公の発表の場で堂々と間違っているなどと言おうものなら、「仲が悪いのか?」と邪推される。発言に社会性からくる邪推が乗っかってくる。
同時に余計な修飾、おべっか、ありとあらゆるものが本質を隠そうとする。喜嶋先生が魅力的なのは、そういったものを一顧だにしない点で、たとえば会社やなんかであれば、そういった点は致命的にさえなるだろうけれども、「研究者」という一点で見ればこれは美徳なのだ。それを端的に表しているのが、「学問に王道なしとはどういう意味か」を巡る橋場君と喜嶋先生の対話。ちょっと引用。
「えっと……、王様が通るような特別な道はない、つまり、こつこつ学ぶしか方法はない、という意味ですよね」
「僕が使った王道は、それとは違う意味だ。まったく反対だね。学問に王道なしの王道は、ロイヤルロードの意味だ。そうじゃない。えっと、覇道と言うべきかな。僕は、王道という言葉が好きだから、悪い意味には絶対に使わない。いいか、覚えておくといい。学問には王道しか無い。」*1
ここでの王道が意味することは、「勇者が歩くべき清く正しい本道」のことだと言っている。学問には一本の道しかない。だからこそ喜嶋先生の言葉は、研究に寄与する意味を伝える非常に論理的でそれ以外ないような言葉になる。
同時に、学内政治に紛争するもの、修士課程、博士課程でどんどん道を諦めて脱落していくもの、講義や会議に追われてろくに研究など出来なくなるもの、いわゆる「王道を外れたもの」も本書にはたくさん出てくる。誰もが行くことが出来ない道だからこそ、その道を行くことが出来る人はある種の羨望と、あと希望を持って見られる。
「自分は無理でも、それが不可能だとは思いたくない」そういう感情が、誰にでも普遍的な物かどうかわからないけれども、少なくとも橋場君からしてみれば喜嶋先生はそういう対象で、僕も強く共感しながら読みました。以下余談
研究とは
図書館にある本を調べ、世界中に存在する文献を検索して、関連する情報をすべて得ても、また、それを把握し、整理しても、それは研究ではない。
喜嶋先生はこう言われた。
「そうやって調べることで、何を研究すれば良いのか、ということがわかるだけだ。本や資料に書かれていることは、誰かが考えたことで、それを知ることで、人間の知恵が及んだ限界点が見える。そこが、つまり研究のスタートラインだ。文献を調べ尽くすことで、やっとスタートラインに立てる。問題は、そこから自分の力で、どこへ進むのかだ」
つまり「研究」というのは、まだ世界で誰もやっていないことを考えて、世界初の結果を導く行為……、喜嶋先生のようにもっと劇的な表現をすれば、人間の知恵の領域を広げる行為なのだ。先生はこうもおっしゃった。
「既にあるものを知ることも、理解することも、研究ではない。研究とは、今はないものを知ること、理解することだ。それを実現するための手がかりは、自分の発想しかない」
僕もどうせだったら、研究とまではいかなくても、せめて「自分が言わなかったら誰も言わないようなこと」を言いたいと思っています。今は無理でも、将来目標として。誰かが言ったことを繰り返し述べたり、相槌を打ったり、頷いたりというだけの言質を繰り返したくはないと思う。
でも、そのスタートラインは恐らくずっと先なのだろうなぁ、と思って不安になってしまいました。何のために本を読んでいるのだろうか。ほんとにこんなことしていて、「自分が言わなかったら誰も言わないようなこと」すらも言えないんじゃないか。
というか、進んできた道に明らかに不安を覚えている。つまり、僕は今科学的な研究に明らかに小説を読んで影響を受けて憧れている訳です。作中の会話で、こんなものがありました。『「この問題が解決したら、どうなるんですか?」 「もう少し難しい問題が把握できる」』
「道」みたいですね。武道や茶道のような、ゴールはなく、永久に歩み続けること。王道もこれに当てはまるでしょうか。学問に王道はあっても、その王道にゴールはないのでしょう。なんかそういうのがいいなぁと、思うんですよね。蛇足でした。
- 作者: 森博嗣
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2010/10/26
- メディア: 単行本
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