基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

瞑想を科学的に語り直す──『なぜ今、仏教なのか 瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』

なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学

なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学

  • 作者: ロバートライト,福岡伸一,魚川祐司,熊谷淳子
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2018/07/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
我々は生活のすべてを自由意志で決定しているような気分に陥るが、実際には身体に内在する仕組みによって突き動かされていることが多い。なぜ性的な欲望を感じるのかといえば子孫を残さなければいけないからだし、なぜカロリーの高いものを好むのかと言えばたくさんカロリーを摂らなければ(かつては)生きていけなかったからだ。

快楽を求めて行動するが、その快楽も得た後すぐに消えてしまう。一度の快楽が永遠に持続したらその生物は滅んでしまうだろうし。我々はそうやって自分の行動をある程度決定づけられているわけだが、そうした事実を知ったからといってあんまり意味はない。たとえカロリーをとることが自分の体にとって不必要だとわかっていても焼き肉に誘われればつい行ってしまうし、ラーメンも食べたい。だってうまいから。

進化心理学に没頭したあとに私が発見したのはこれだ。自分の状況について真実を知ったところで、少なくとも進化心理学が提供する形の真実では、かならずしも人生がましになるとはかぎらない。それどころか、悪化することさえある。

本書はそうやって進化心理学に没頭した後に「真実を操作できるんじゃないか?」と瞑想・仏教へとのめり込んでいった著者による科学的仏教論である。原題は「Why Buddism Is True(なぜ仏教は正しいのか)」と挑戦的だがトンデモ本ではない。仏教の細かな教義、解釈違いが激しい場所には立ち入らず、仏教の基礎哲学とその実践について、自身の経験も交えながら科学的な解釈を通して語り直している。

瞑想って具体的になんなの? どんな効果が訪れる? 悟りってなんなの? それはどういうプロセスを踏んでいるの? 無我って何? 空ってなんなの? ということを(実践しないと本当にはわからないのだとしても)、なんとか言語上で解説しようとすることで、その入口に立つことができるように案内していく。

瞑想や悟りを語ることは難しい

瞑想や悟りを語るのは難しい試みのように思える。成功、失敗、95%の達成率とかそういう瞑想道の定量化なんてものはないし、成功を追求している時点でナンセンスだ(瞑想を進めていくと成功とか失敗とかいう話は消える)。無になっていくような感覚を言葉で語ろうとするのだから無茶なのも当然で、文面からも著者がそれを伝えるのに四苦八苦しているのが伝わってくるが、それがまたおもしろいともいえる。

著者が行うマインドフルネス瞑想では一般的に、呼吸に集中し心を安定化させ、自分が気をとられたり気にかけたりしている対象から心を開放することで、今起こっていることをありのまま経験・認識・観察することを主眼としている。なんだか大層なことを書いているが、ようは先に書いたような「カロリーを取りたいと思う気持ち」とか「性的な欲望」とか、「明日の会議での発表どうしようかなあという不安」とか、我々の脳が生み出している錯覚を追い払うプロセスが瞑想の一側面なのだ。

この辺が具体的にどういう感覚かはそのまま引用したほうがいいだろう。『しばらく自分の呼吸に意識を集中する。だが同時に不安そのものにも意識を向けた。胃がしめつけられる感覚があった。合宿で教わったように、なんの判断もせず、ただ不安を観察するよう努める。不安は悪いものとはかぎらないし、のがれようとする必要もない。ただの感覚にすぎないのだから、ただすわってそれを感じ、観察する。』錯覚を追い払うと書いたが、不安や欲望と一体化した状態から外から眺めるような感覚の遷移に近いのかもしれない。瞑想なんてしたことないので興味深い心の動きである。

我々は特に何もしていない時、心理学者がいうところの「デフォルト・モード・ネットワーク」と呼ばれる、意識がさまよい出す活動が発生するのだけれども、この時に欲求不満や怒り、過去の失敗談の想起などマイナスな感情が沸き起こってくることがある。瞑想は呼吸に集中することでDMN状態に移行するのを妨げ、その支配力を弱めているのだと著者は語る。他にも、瞑想合宿のような連続して集中する期間の中では、日常の感覚に深く没入することで、鳥のさえずりなどの美に敏感になり、本の手触りを深く感じるようになり、物の見方、感じ方が一変する経験をしたという。

自己はCEOではない。

瞑想だけではなく、仏教概念の説明も丹念に進められていく。その一つが無我だ。我、自己といったものは存在しないという考えのことではあるが、普通は「そうはいったって「わたし」はいるじゃん」と思うだろう。これについてブッダの理屈としては、自己を「コントロール可能性」と結びつけて考えており、たとえば(ひどく単純化してしまうが)我々は暑いとか苦しいとか苦痛の感覚をコントロールできない。つまり感覚は自己ではない。知覚、意志、意識についても同じである、としている。

実際、現代の心理、脳科学においては人間はみな自分が思っているほどに自分の行動や意識をコントロールできていない、コントロールできる領域は小さいとする説が主流になってきている。『「『あなた』は大統領でも、首相でも、主席でもない」』というが、多くの実験が、人間が意識的に行動を決定したと感じる少し前にすでに決定されている、あるいは各種バイアスや環境が人間の行動をあらかじめ誘導しているにも関わらず我々の意識がまったくそれを認識できていないことを明らかにしている。

仏教の理屈に従えば、瞑想を繰り返すことによってそんな自己の捉え方を変えることができるようになるわけだが、それがどのような経験なのか──といったところあたりは、もう読んで確かめてみてもらいたいところである。

おわりに

感覚的な話も多く、また必然的に矛盾している話も多いので「なんじゃこりゃ」と読む人が読んだら思いそうな本ではあるが、科学的思考に浸かった現代人的な観点から仏教、瞑想といったものを捉えたらどうなるのか──といったコンセプトがおもしろく、多くの人にとって瞑想と仏教の入り口として適切な一冊なのではないだろうか。