基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

星の舞台からみてる

あ、そういえばつい先日マリア様がみてるの実写版映画観ました。二次元の三次元化は(しかも低予算では)大半がクソという先入観があったからか、よくできていて感動すら覚えました。あの異世界的な百合百合した世界観がうまく表現されていて良かった。景色も綺麗だったし、お話も破綻なく忠実に再現されていたし、キャストもそこまでひどくはなかったです。

まあそんなことはどうでもいいんですが(まったくだよ)木本雅彦先生によるシステムエンジニアSF小説『星の舞台からみてる』を読みました。こんな事言うのもなんですけど、大変読むのがつらかったです。極主観的な感想を言えばキャラ文章展開テーマ含めてどれ一つとして惹かれるものがなかったので。

でもまあ一応最後まで読んだのでそれなりには面白かったなと。一応あらすじを簡単に。香南というふっつーの女の人が主軸の三人称パートと、野上という伝説の人物のエージェント(ネット上であらゆる業務を行ってくれる仮想人格)の自我を巡る一人称パートが交互に入ります。

香南さんは派遣社員で独り身の人が死んだ時の死後処理を任せられている企業で働いています。そこにその企業の創業者である(もうメンバーからは外れている)野上さんの死亡届が来る。さあ処理しようか、となった時に野上からの謎のメールが来て解明に乗り出す……。

個人的に笑ったのと同時にどん引きした文章が「ボクはグローバルなオーバーレイにジョインし、次のホップをルックアップした*1」という一文。システムエンジニアSFの片りんが感じ取れたのではないでしょうか。一文にこれだけ─文字が並んでいるのはきっとギャグなんだろうとは思いますが、ここ以外でも全体を通して用語が耳慣れないものばっかりで読むのがかなりつらいです。

一番納得がいかなかったのはエージェントの自意識の問題。エージェントのボク(一人称がボクなのだ)は消されそうになると死にたくない! と言ったり、やり取りを見ていると感情と自分を認識する手段を確立しているように見える。つまり意識がある存在として書かれている。それは何故なのか、というのがさっぱり理解できない。

「人間にはコウモリに生まれるクオリア(赤い、とかおいしい、とかの他者に伝達不可能な感じのこと)を理解することができないのと同じように、人工知能に生まれるクオリアも理解できない。ボクがクオリアを感じているかはボクらでなければわからない。それを人間によって認めてもらう必要があるのだろうか。エージェントはエージェント堂氏だけで、感情を持った存在として成立できるのではないだろうか。」

と言っているが、こんな事が言えるのは「エージェントの一人称」という裏技的なことを使っているから言えるだけであって、「エージェント」の部分が犬の一人称になろうが猫の一人称になろうが応用可能なファンタジーにすぎないんじゃないかなー。そんで「何はともあれ、エージェントは感情、クオリアを手に入れた」とか書いてしまうし。むー。

なぜ仮想人格のパートナーが人間には必要なのか?

エージェントについても考えてみよう。なぜ仮想人格のパートナーなどというものが人間には必要なのか? 単に情報処理端末としてなら人格なんていらない。この点に関する問いかけがなかったら僕はこんなに乗り気のしなかった本の感想なんか書かなかっただろうし最後まで読めなかっただろう。本書では人工知能が言葉の意味を理解する為に必要なのは「コミュニケーションだ」と言っている。

二人の人間が会話の中で物事の意味を一つに認めた時に初めて言葉に意味が生まれる。人間1人しか世界にいなければ、意味など必要ないからというわけ。なもので人工知能が意味を理解する為には人工知能がコミュニケーションをとればいい。人間との接触・コミュニケーションこそがエージェントに知性・自意識・感情をもたらす(納得いかないが)。本書ではエージェントが独り立ちする為に、人間とバディを組む。これはこれで大変面白いと思う。

また、『帝王の殻』や『華竜の宮』にも「人間のパートナーとしての仮想人格」が出てきたが、これら二つが生まれた主な理由は「人間のディスカッション相手」とも言える。たぶん、理性が制御しきれない人間に対しての極度に理性的な部分を、「自分じゃない自分」に託したいという欲求が仮想人格を人間のパートナーにさせるんじゃないかと思う。

そんな感じ?

星の舞台からみてる (ハヤカワ文庫 JA キ 7-1) (ハヤカワ文庫JA)

星の舞台からみてる (ハヤカワ文庫 JA キ 7-1) (ハヤカワ文庫JA)

*1:p.212