タイトル通り村上春樹による雑文を集めたものになっている。読む前は「まあ、雑文ということだしそこまで期待しないでゆるっと読もう」と思っていたのだが、これが凄く充実した内容で一気に読んでしまった。雑文集といえどもそこには一貫した流れがあるし、ばらばらの内容に見えて随分とまとまっている印象を受ける。
読むのが止められない理由として①エッセイのようなものが多いとはいえ文章がとても素晴らしいこと②村上春樹の観察力が、凄まじいことと二つ挙げられるのではないかと読んでいて思った。少し回り道をして説明すると、僕は昔何度か小説を書こうと試みたことがある。
というのも僕のように小説を大多数の人よりも読んでいると、周りの人はなぜか「へえ〜凄い読むんだね。小説は書かないの?」と聞いてくるパターンが多いのだ。その頃から今に至るまで読むことと書くことは違うだろうと思い続けているのだけれども、しかし何度も何度も小説は書かないの? と聞かれ続けると「え、僕はひょっとして小説を書かないといけないor書けるのだろうか?」と考えるようになるのだ。
そもそもなぜ小説を読んでいるだけの人に対して「小説は書かないの?」と聞くのか考えると、多くの人にはそれぐらいしかたくさん小説を読む理由を考え付かないんじゃないかという気がする。あるいはサッカーの鑑賞が趣味だといっても、サッカーをする為には最低でも22人もの人間が必要になる。道具も必要だし、鑑賞が趣味=サッカーをする に至るまでいは高い壁がある。
話がそれた。そういうわけで僕は小説を書いてみることにした。しかもいきなり長編に挑戦した。長時間触れ合うと木になってしまうというSFっぽい話だった。少年と少女が出会い、でも触れ合えずに、旅をして色々な人と出会っていく。そういう筋書きで書き始めたのだけれども、残念ながら途中で挫折してしまった。
今でも思い出すのだけれども、それは家の描写をしようとした時だった。家の中にある部屋、家具とか、雰囲気とか、そういったものを書こうとした時に、何をどう書いていいのかさっぱりわからなくなって呆然としてしまったのだ。何を書いていいのかさっぱりわからなかったので、とりあえずお手本にしようとJ.D.サリンジャーによる短編『エズメに捧ぐ』を本棚から取り出した。
で、なんかこう、書き方の雰囲気だけをパクってなんとかして部屋の雰囲気を出そうとしたのだけど、無理だった。なんというかこう、一部分だけ変更するのが不可能な描写だった。描写は一貫していて、他の物に変換できないオリジナリティに溢れていたわけだ。単なる部屋の描写なのに、それは物語の中にがっしりと組み込まれていて、別の物に変換することは不可能なように思えた。
その時に初めて「小説における風景の描写はどれほど大切で難しいのか」という事を意識した気がする。何の苦もなく読める風景、場所の描写は、それなりの技量がなければ生まれてこないのだと気がついた。その時小説家に対して深い尊敬と、自分には無理だという挫折感みたいなものを覚えた。
恐らくそのような違和感のなく、確固とした風景描写というやつは絶え間ない観察から生まれてくるのだとこの『村上春樹 雑文集』を読んでいて思ったのだ。この本に収録されている一番最初の雑文にて、村上春樹は『小説家とは世界中の牡蠣フライについて、どこまでも詳細に書き続ける人間のことである』といった。
牡蠣フライについて書くことが、自分と牡蠣フライとの距離を書くことにつながり、その作業をいろんなものに敷衍させていくのが小説家だという。牡蠣フライについて書く、その時の自分との距離感とか、肌触りといったものを、正確に書くことによってそこから誰にとっても普遍性のある物語が生まれてくるのではないかと、そんな気がする。
この雑文集は村上春樹がいろいろなものについて牡蠣フライについて書くようにして詳細に書いてきた結果である。それは詳細な観察なくしては書けないだろう。村上春樹は世界中にあるいろいろな何かを自分の中に取り込もうとして、一か所にとどまらずに世界中を転居しながら過ごしているのではないかと思う。
僕が得た教訓はとりあえずのところだけれども、「観察をしよう」ということに尽きる。それは人だったり、物だったり、関係だったり、概念だったりするだろうが、書く為には観察が必要だ。僕が小説を書こうとした時に、部屋の描写について何一つ思いつかなかったのは、僕が部屋について何も知らなかったからに他ならない。
別に小説を書きたいわけではないけれど、架空の部屋の描写をしようとして何も思い浮かばないというのはかなりさびしいと思う。
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2011/01/31
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