基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

ねにもつタイプ

翻訳家の岸本佐知子さんによるエッセイ集。

最近はエッセイっていいな、と改めて気が付いているところです。まず気楽さが良い。どんなことでも、日常を切りとって書くことが出来ます。非常に身近です。厳密でなくてもいいし、無駄なこと大歓迎、といった感じ。小説などというのは、基本的に生きて行く上では無駄の極みですが(同時に小説の良いところは、その無駄なところである)、エッセイもそのような気楽さがあります。

ましてや、岸本佐知子さんの日常を見る視線は、これ一種の異能であります。異能といっても、異なる能力という意味であれば、これはだれしもが持っているものですが、より少数でありまたそれが人目を惹きつける点において、凄い意味での異能と言えるでしょう。どういうことか。岸本佐知子さんの視線は、常に日常に立脚しておきながら、そこから次の瞬間にはどこかまったくの異世界に吹っ飛んでいく。同時に、読んでいると連れ込まれていく。端的にいってどこが凄いのかというと、恐ろしく自由だ、ということになる気がする。発想が恐ろしく自由奔放なのです。

たとえば、新しく買ってきたトイレットペーパーを、古いやつの前に置こうとした時に、古いトイレットペーパーが「待ってください。まさかその新しいのを私の前や上に積むつもりじゃないでしょうね」などと声をあげる。「そうだけど」と普通に会話が成立してしまう。エッセイといいながらも容易に日常から異世界に吹っ飛んでいくと言うのはつまりこういうことで、実は吹っ飛んでいる訳では全然ない。日常がすなわち、トイレットペーパーが話し出す世界と=なのです。

またやけに小学校時代の話が多い。幼稚園の時の話も多い。僕は幼稚園の時に覚えるていることがほとんど皆無だし、小学校の時のこともほとんど覚えていない。中学校からなんとなく覚えているぐらい。かなりのおばちゃんになった岸本佐知子さん(失礼)が今でも昔の事を鮮明に覚えているのは凄いなあ、とここまで考えたところで、岸本佐知子さんの一瞬にして日常を異世界にしてしまう視線は、誰もが子供のころに持っていた能力に相違ないことに気がつく。

子供の頃の発想力はなかなか凄い物がある。僕も小学生の頃、兄弟も親もいない家の中で一人でよく遊んだが、椅子を四つ並べて、椅子ごとに役割を与え(先頭は運転席、二番目は食糧庫、三番目と四番目はお客さんの席)よく機関車の駅長ごっこをやったものだった(数少ない思い出。)今やっても、たぶん面白くないと思う。恥ずかしいと言うのもあるけど、今の僕ではもうそれをリアルな機関車のように思い浮かべることはできない。

岸本佐知子さんの天才とは、要するに子供の時の気持ちにスイッチを切り替えられるところにあるのだろう。あるいは、子供のまま大きくなってしまったのかもしれないが(……)。今の僕には、それはとっても素敵なことに思えた。

ねにもつタイプ (ちくま文庫)

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