造形家である木根原の娘・理沙は、九年前に海辺で溺れてから深昏睡状態にある。「五番めは?」―彼を追いかけてくる幻聴と、モーツァルトの楽曲。高速道路ではありえない津波に遭遇し、各所で七本肢の巨大蜘蛛が目撃されているとも知る。担当医師の龍神は、理沙の夢想が東京に“砂嵐”を巻き起こしていると語るが…。『綺譚集』『11』の稀代の幻視者が、あまりにも精緻に構築した機械仕掛の幻想、全3章。
津原泰水作。2009年に出たものをつい最近文庫化。
タイトルには元ネタがあり、ジョージ・アンタイルという方の音楽のタイトルであるようだ。エウレカセブンの話のタイトルに使われていたりして、結構有名ぽい。僕は知らなかったけれど。ジョージ・アンタイルさんのWikipediaから少し引用する。
最も名高い作品は、1926年の「バレエ・メカニーク」であるが、これは演奏会用に企図された作品であって、曲名に反して、舞踏音楽としては作曲されてはいない。この曲において踊り子を演ずるのは機械であり、電子ブザーや航空機のプロペラといった部品が含まれていた。この作品は、初演において、騒動と評論家の非難を巻き起こした。
本作は3章に別れておりそれぞれお話は関係しあっているものの雰囲気やテイストがずいぶんちがってまったく別のお話のようにも思える。1章で本作のタイトルにもなっている『バレエ・メカニック』は筒井康隆のパプリカを強烈に思い起こさせる夢と現実が入り混じったような都市を馬に乗ってテクテク歩いて行く意味不明な話だ。
まあ意味不明な話なのは2章も3章も同じなのだけど。でもわけがわからないなりに「凄い」と感じるのだから凄い(語彙が貧弱だ)。でもそれはたとえばエヴァンゲリオンの劇場版を観た時のわけのわからないけどすごい感ではなく本作は「何を言っているのかさっぱりわからないがとにかく一つ一つの表現がすごい」のでタイプが違う。
作家にも得意とするものが一人一人違うけれど津原泰水は感覚を表現するのが圧倒的にうまいと思う。人間が感じるめまいとか、気持ち悪い物を観た時の嫌悪感など。そういった個々の人々に固有の身体感覚を文章で詠み手に理解させるのがうまいのだ。たとえばこんな感じ
君は前方に目をやったが酩酊感はいっそう強まっており、どこがどう混雑しているのか認識出来なかった。馬車はゆっくりと直進しているはずなのに景色がひどくめまぐるしく、不慣れな人間が撮影したヴィデオ映像のように揺らいで感じられる。子供が目的地に向かって街の隙間をすり抜けていくあの感覚と似ている。
実際このあたりは巨大な蜘蛛が都市をはいずりまわりドアをあけたらそこはまったく別の空間につながっているような意味不明な状況になっている。しかもそこを馬車にひかれてえんやこらと歩いていて作中の人物たちも全く意味がわからんという状況だし読んでいる方も全く意味がわからんこれはなんなんだと思うばかりで上に引用した文章を読んだ時には思わず共感してしまった。
謎が散りばめられており解釈のしがいある作品といえる。物語を根底から見方を変えられるような解釈ができるような気もする。ただそのような気力が僕には湧いて来なかったし面白いかと言われれば物語は意味がわからないが一つ一つの文章を追ってそこに身をひたすだけでも随分と楽しめる小説ではある。そしてそういう小説はほとんど存在しない。ならばそれは読む価値があるしだからこそこうして紹介したのである。
- 作者: 津原泰水
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2012/01/25
- メディア: 文庫
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