基本読書

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HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション) by ローラン・ビネ

なんといって分類したらいいものやら、途方にくれてしまうような作品で、まあ一言で、アホみたいに表現するのならば「かなりすごい。」になってしまう。HHhHとはまたまったく意味のわからないタイトルだが、Himmlers Hirn heiβt Heydrich(ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる)の頭文字をとったものになる。謎の小文字にもちゃんと意味があるのだ、当たり前だけど。そしてヒムラー、ハイドリヒとくればわかるように、本作はハイドリヒ暗殺を中心とした、歴史小説になる。

なんだ、すごくわかりやすい分類があるじゃないかと思うかもしれない。「歴史小説」。しかし本作は単純にそう分類できるものではない。何しろ257にも及ぶ章の中で(1章が半ページぐらいだったり、3行だったりと短いけど)何度も何度も著者自身が自身の作品について、資料集めについて、あるいは歴史小説を書くとはどういうことなのかについて、悩み、苦しみ、書き直し、書きなおしたものを元に戻し、資料を集め、と「歴史と格闘するさま」まで含めて本作の総体となっている。

歴史なんてものをすべて再現することは不可能だ。その時何を考えていたのか、どんな状況だったのか、血液が沸騰していたのか顔は青かったのかあかかったのか驚いていたのか悲しんでいたのか。状況を観てきた人間もいれば文書でしか残っていなかったり何十年もたってからのうろ覚えが事実として残っていったりする。記憶というのは刻みつけられて変わらないものではなく蒸発して消えていき空白は想像や先入観で埋め合わされるようになる。

もちろんすべてが記載、記憶、されているわけではない。数十年前ならともかく、何百年何千年前ときたら。でもだからこそ歴史小説というのは生きるのだと僕はずっと思ってきた。確定されない未来と同じぐらい、歴史も確定されない。どんなところにでも空白があって、空白が大きければ大きいほど、小説家は自身の想像力を飛躍させて面白い、わくわくするような世界を構築するのだと。

しかし、著者のアプローチはそれとはまったく異なる。さも今まで当然のごとく繰り返されてきた空白を埋めるフィクションに抵抗しようとする。『この場面も、その前の場面も、いかにもそれらしいが、まったくのフィクションだ。ずっと前に死んでしまって、もう自己弁護もできない人を操り人形のように動かすことほど破廉恥なことがあるだろうか!*1

僕が読んできた歴史小説とはそうしたことは頓着しない。いや、きっと、していたんだろう。しなかったはずがない。でもそんなことは小説の中には書くはずもないし、それにこだわり続けていたら歴史小説なんて書けるわけもない。だけどローラン・ビネはできるかぎりこうした事実に抵抗する。ようは、最大限資料を集め、自身の葛藤を作中に織り込んで、常に「現実(歴史)に寄り添って」自身の想像力を発揮させようとする。

まるで時間旅行のように、ある時間を切り取ってローラン・ビネは出現し、解説する。この場面はこうで、この場面は実はこうで、この部分はフィクションで。もちろんすべてを描写しきることなんてできないし、絶対の確定情報なんて望むべくもない場面がたくさんある。でもそうした場面においても「なんとかして現実に近づけようと苦闘する様」が間に織り込まれていることで、そうした「歴史との格闘」がそのままドラマになる。

メタ歴史ノンフィクション小説といってもいいだろう。ノンフィクション小説という時点でなんだかわけのわからない矛盾が起こっているが、ノンフィクションの部分は「著者と歴史との格闘」部分がノンフィクションなのであり、しかしそれは小説という形式の中に収まっている以上ノンフィクションのように見える部分もまた小説なのであって、メタ歴史ノンフィクション小説なのだ。

そうした意味不明な試みが成功したのも、ナチズムという類まれな「歴史」を扱っているからだろう。資料が全く残っていないほど古すぎるわけでもなく、さらにナチズムの歴史は創作よりも創作らしい。『そもそもナチズムに関して何かの創作をして、どんな意味があるのか?*2』とは本書で著者が事実に則って書いた部分を「創作じゃないの?」と他人に言われた時の返しだが、まさに。創作をする必要もなく素材がもともと悲劇的で刺激的なのだ。であるならばあとはそれを忠実に再現するのみ(もちろんそれだけでは傑作にならないわけだけど)。

ひとつ疑問があるのは、「歴史小説の醍醐味は空白を想像力で、楽しい方向に埋めることであって、リアリに寄り添う必要がどこにあるのか?」ということだ。この点にかんしては「そうとはいっても著者が偏執狂的にこだわるから」と自身が書くように答えてもいいのだけど、でもはっきりとした利点が読んでいると感じられる。

それは単純なことだが。資料を集め、歴史と苦闘するために車の色が黒か緑かで延々と考え続ける著者の独白が合間に存在する小説を読んでいると、小説部分への信頼感が増すのだ。著者はハイドリヒを暗殺しようとする2人のスパイが空中から降下する際にどんな装備を持っていたのか事細かく知っている。何時何分にハイドリヒが死に、その前後でヒトラーヒムラーが何をしていたのか知っている。およそ信じられないような細かいところまで、知っている。そして、それを活かそうと苦闘している。

だからこそ純粋たる小説パート、ヒトラーヒムラーやハイドリヒやハイドリヒを暗殺しようとするガブチークやクビシュを描写する部分でも、そうした偏執狂的な細部へのつくりこみが骨子となって支えていることを、読み手は知っている。それは思っていた以上に小説への没入感を高める。クライマックスが近づいてくる。当然著者は全精力を持ってその場面を精緻に描写しようとする。その苦闘はハイドリヒパートと合い重なって、相乗効果的に場面の緊迫度は増していく。

小説の特権のひとつは時間を止めるのもその合間にモノローグを入れるのも場所を移動するのも非常にお手軽だ、というところにあるだろう。時を止め、場所を移動し、細部に至るまでに描写し、ほんの一瞬、コンマ何秒かの出来事を描写していく際に、なんとも言い表しにくい、味わったことのないカタルシスをこの小説から得る。それはたぶん偏執狂的に小説と歴史を近づけようとした試みの末にある興奮だろうし、小説でしかできなかったことだ。

歴史小説ではある。でも同時に、歴史小説を書くという苦闘の中に身を投じる一人の小説家の物語でもある。歌や踊りや絵の傑作といった言語化しにくい表現を見た時の、あわわわわわなんといったらいいのかわからんがとにかく圧倒された!! という感覚を、それより幾分言語化しやすいはずの小説という媒体で味わうことになる。かつて経験したことのない語りを読みたい人がいたら、本作を是非オススメしよう。

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

*1:p124

*2:p58