基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

街場の読書論

内田樹先生のブログ本。普段のブログ本は買わないが、読書論なら買う。ブログの最悪な点は「過去ログが生き返ってこない」ことにあるが、本にされることで並び変えられ、再度息を吹き返す。2年も3年も前の記述を線にそって再構築してくれるから、そういう点が良い。ただ単行本にするのはどうかと思うなあ。新書でいいじゃん?

ブログ本なので既に読んだ話が大半を占めるが、どれも面白い。忘れてしまっているから、ということももちろんあるのだけど(それでも内田先生の場合は重要な話しほど何度も繰り返されるので忘れないのだが)、それ以上にリーダビリティがある。

リーダビリティについて、本書では度々触れている(あとがきでは丸々リーダビリティについて書いている)。どんな言葉が相手に伝わるのかについて、内容の真理性の高さこそが重要であり、正しければ正しいほど良く伝わりリーダビリティは高くなるのだという考えを内田先生は否定します。

では、どんな言葉ほど他人に届くのかというと、本書で提示されている仮説は「自分宛のメッセージでないものに、それほどのリソースを割かない」言い換えると「読者は「自分宛てのテクストだ」と思ったら「きりっ」とする。「オレ宛てじゃないや」と思ったら「ぼおっ」とする*1

リーダビリティの本質はコンテンツにあるのではなく、「そのメッセージは自分宛てのものだ」と直感する人を得ることにある。僕はそう考えています。*2僕はリーダビリティについて「読みやすい」「二度目でもついつい読んで、しかも読みきってしまう」ぐらいの雰囲気で使っていますが、内田先生に言わせると「このメッセージは僕に向けられているのだ」と僕が感じているから、ついつい読んでしまうということになる。

なるほど。そうなってくると次に疑問として出てくるのは「それじゃあ、どうやったら一人一人異なる読者に対して「このメッセージはあなた宛ですよ」と宛名をつけることができるのか」である。これに対して内田先生が書いていることは禅問答じみてきていてよく理解できない。

「読者に対する敬意」はメタメッセージのレベルにしか表れないという。メタメッセージとは、「メッセージの解釈の仕方を指示するメッセージ」であり、だからこそ「一義的な意味しか持たない」(二つも三つも意味がとれたら、メタ・メタ・メッセージが必要になっちゃうもんね)。だからこそ「読者に対する敬意」はメタ・メッセージとして示されなければならないのだという。

まず「メタ・メッセージ」が「メッセージの解釈の仕方を指示するメッセージ」だというのは、たぶん内田先生ぐらいしか言ってないだろう点だろう。あと、読者への敬意はメタ・メッセージによって示されなければいけないというが、メタ・メッセージはどのようにして示せば良いのだろう? 

メタ・メッセージは「メタ」なだけに「誰でも読み取れる」ものではない。それは読み取ろうとしている人間にしかわからないものである。ようするに読者に対する敬意を、書き手側は文章の裏に常に潜ませ、読者はそれを感知するできた場合にリーダビリティが向上するということなのか。

結局は思想の話なのだろうか? たしかに読者に敬意を持って、「これはあなた宛のメッセージなのだ」と常に思いながら文章を書いていれば、その事が文章の端々からメタ・メッセージとなって伝わるのかもしれない。が、本当にそんな話なのか? 内田先生はいろんなところで「これはこういうメタ・メッセージなのだ」と書いているが、どうにも僕にはそれがよくわかっていないようだ。

「なるほど、それがメタ・メッセージなのね」と書いてあることはわかるが、なんていったらいいのかわからないが、具体的にそれが何なのかうまく考えつくことができない(たとえば貴方宛のメッセージですというメタ・メッセージなんてどうやって作り出せばいい?)

当然、そんなことが解説出来るのであればいくらでも大ベストセラーが生み出せるのかもしれないが……。一方で、「自分宛のメッセージにきりっとする」というのは実感としてもよくわかる。メールなんかが良い例で、あんなの、他人のメールなんかまるで興味がないけど、自分に来るメールだからこそ一生懸命読む。数ある情報の中で最も優先度が高いのは「自分のこと」であることは間違い無いだろう。

あとはどう「これは自分宛である」と読者に思ってもらうことが出来るか、である。恐らくこれに完全な答はないのだろう。100人に向けて語って、100人全員が「これは自分宛だ」と思うことは、まずない。だから課題は「いかにして「これは自分宛である」と直感する人を増やすか」になるのだろう。今後のテーマとしよう。

街場の読書論

街場の読書論

*1:p408

*2:p413