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異質なものとの遭遇──『翻訳問答2 創作のヒミツ』

翻訳問答2 創作のヒミツ

翻訳問答2 創作のヒミツ

鴻巣友季子さんと片岡義男さんの、言わば翻訳の達人二人によって行われた『翻訳問答』に続き、今作では小説家としても活躍する人々五人と鴻巣友季子さんの問答アンソロジーである。登場する人物は奥泉光さん、円城塔さん、角田光代さん、水村美苗さん、星野智幸さんとそうそうたるメンバー。
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前作はプロ同士の解釈のせめぎ合い、技法の交わし合いが面白かった。一方、今作では鴻巣さんがどちらかといえば教授するような本になるのではないかとちょっとだけ心配していたのだが、そのような一方的な展開にはならずに、ちゃんと独特の面白さが出ている。作家ならではの解釈というか葛藤が存在しており、翻訳される作家側の思いが見れるのも面白いのと、五人は経歴も作風も大きく異なるので多様な訳の広がりが感じ取れるのは今作ならでは。

形式は前作のものを引き継いでいる。お題となる本と範囲が指定され、二人がそれを訳してきて、お互いにどうしてそう訳したのかを検討していく。誤訳はあっても正訳はない翻訳こその解釈検討会みたいなものだ。翻訳家ごとのブレがそのまま翻訳の面白さや奥深さでもある。特徴的なのは、今回はみな日本の小説家でもあるということで、「日本を原文とするものから英語(一人スペイン語)に翻訳されたものをさらに日本語訳する」物が多いこと(水村美苗さんは『嵐が丘』、星野智幸さんは『アラビアンナイト』なので3/5だけど。

吾輩は猫である

これの面白いところは、「けっして元に戻らない」のがわかりやすいところにある。たとえば一人目の奥泉光さんとの対談は、お題がなんと『我輩は猫である』。これが英訳されると、吾輩なんていう一人称は存在しないから『I AM A CAT』になってしまう。で、当然これから訳すとなると、原原文(日本語)を知らない前提に立てば「我輩」にはならないのだ。あのあまりにも有名な『我輩は猫である。名前はまだ無い』も英語にするとI am a cat; but as yet I have no name.になる。

これを二人がどう訳すのかといえば──。まず奥泉光さんが『あ、猫です。名前はまだなし。』という軽さである。もちろん、ある種のお遊び企画であるからこその軽さというのはあれど、これはいいなあ。i am a cat っていうのは基本的には衝撃的な語り出しなのだから、それをいかに表現するのかという点では一つのありかただ。対して鴻巣さんは村上春樹風のバージョンと普通バージョンがあるが、普通バージョンでは『わたし、猫なんですよ。もっとも名前はまだありませんけど。』になる。

「わたし」を入れるかどうかが重要なポイントだが、うーんどっちがいいかなあ。好みの問題だろうか。とまあ、この例ひとつとっても、翻訳と原文というのは等価なものではありえない、でもそこが面白さでもあるというのがよくわかるだろう。

この二人の対談はおもしろい箇所が多くて、翻訳していく上でどうしても「つじつまが合わない」部分が出てくるのを翻訳上でどう補うのかについての話なども興味深い。一文目で○○を見た、といってるのに二文目で「ちらっと見た」と書いてあると「なんか順番がおかしくないか?」とか、普通に読んでいたらあまり引っかからないような細かい部分が解体と再編の過程で強い違和感になって残ってしまうのだ。

訳者の頭のなか

今回面白かったのは、日本語の原文があるので「うーんここの英語はどうなんだろう……日本語の原文は……書いてないじゃねえか!!」という検証の過程が増えていること。「英訳者はこう考えたのかなあ……」と見えない参加者が一人いるようなものだ。それで面白かったのは円城塔さんの竹取物語。まず英題が「THE BAMBOO-CUTTER AND THE MOON-CHILD」な時点でおもしろいが英訳もいい。

たとえば訳範囲の第二パラグラフで次のような箇所がある。「the Princess shining in her own radiance, bright and wonderful and full of beauty」。『どれだけ輝けば気が済むんだ、と言いたくなる(笑)』と鴻巣さんにツッコまれているぐらいにはshining,bright,radianceと光らせているが、この解釈がわかれている。

鴻巣さんは『まばゆいばかりの美ぼうにかがやくプリンセスがすがたを現したのです。』と光は抑えめ。一方円城さんは『比類のない美しさに光り輝く姫の姿があたりを照らした。』とガンガン照らしている。で、円城解釈では『これは比喩ではなく、ほんとうに光っていて明るいのでしょう。かぐや姫自身の美しさで発光していて、光がもれてくるということだと理解しました。』と比喩ではなく本当に光っていると解釈し、重視しているようだ。なるほどなあ……。ただ、原文(日本語)には一切光系の描写はないのだ。

そんだけ光らせておいて光の文章はないのかよ!! と思わずツッコミたくなるが、何をどう解釈するかでずいぶん訳文も変わってきてしまうものである。

翻訳小説をなぜ読むのか

それにしても、翻訳小説の何が(どんな部分が)好きかという話が何度か出てきて、それはちょっと面白いなと思った。なぜ読むのか? 僕は海外SFを中心として海外文学もけっこう読んでいる方だと思うが、「面白いから」以外の理由を必要としていなかった(今はSFマガジンで海外SFの連載をやっているから仕事として読んでいる面はあるが)。今あえて考えるなら、やはり日本ではあまりない、その国だったり辿ってきた文化背景固有の異質さがあるからこそ面白い、という面があるように思う。

もちろん、原文から生成される翻訳文が好きなのもある。惚れ惚れするような名人芸に遭遇すると嬉しくなってきてしまう。最近だと『複成王子』や『デューン 砂の惑星』などで驚異的な訳をみせつづける酒井昭伸さんなどは訳文に圧倒される。いま・ここから遠くはなれた世界を描写するSFでは文章それ自体にある種の跳躍*1が必要とされ、翻訳文独自の魅力が高まっていくところはあるように思う。その辺の話は、奥泉さんとの対談では少し触れられている。

奥泉 翻訳したテキストがオリジナルより優れていることはあり得る。
  SFを翻訳される方々がいらっしゃいますよね。ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』を訳した黒丸尚さんや、グレッグ・イーガンを訳している山岸真さんなどが挙げられますが、あの人たちはほんとうにすごいと思う。彼らの高い翻訳創造力には目を見張ります。

と言われると、別に僕が褒められているわけではないが心情的にSFに近いところにいるのでついつい嬉しくなってきてしまう。そうそう、これがもうほんとうに凄いんだよね。近著で挙げると、『クロックワーク・ロケット』は山岸真さんと中村融さんの共訳だが、舞台となるのは物理法則まで現実とは異なっている、いま・ここから遠い場所にある世界だ。この跳躍を支える訳的な労力は想像を絶するものがある。

おわりに

とまあ、後半話がそれたが、普段あまりみることのない「翻訳家同士の解釈の違い」「どのように解釈を決めるのか」が見えてくるおもしろいシリーズだ。対談相手に好きな作家がいるならばよし、いなくてもこの人はどんな小説を書いているんだろうとついつい気になってしまうアンソロジーに仕上がっている。ただ、英文が頻出するので横書きにして欲しいなあ。

クロックワーク・ロケット (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

クロックワーク・ロケット (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

*1:超訳の誤字ではなく