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柴野拓美SF評論集 (理性と自走性――黎明より) (キイ・ライブラリー) by 柴野拓美

『宇宙塵』なる日本SF界屈指の同人誌を主宰者として発行、長年編集長として活躍し、同人誌でありながら多数のプロ作家を見出し、自身も翻訳活動、解説など様々な文章を書いてきた柴野拓美氏の評論集になる(2010年没)。

いやあ、これは良い本だった。「昔はよかった」なんていうと、「老害乙」みたいな反応がすぐに返ってくる嫌な世の中だが、でもなんだって「最初」は良いものなんだと思う。ジャンルにしろシステムにしろ、それが起こった時はまだいろんなことが定まっておらず、文化祭前夜のような雰囲気の中でいろいろな要素が化学反応を起こして面白くなっていくものだ。現代の豊穣なSFジャンルをみればわかるように、次第に周知され、拡散と洗練の過程が発生するものの、初期のころのような「いま、決定的に何かが起こりつつあるわくわく感」みたいなものは失われてしまう。

この柴野拓美さんの評論集はかつての日本SFがもっとも熱く、変化が急だった時代を鮮明に捉えている。小松左京が出て、星新一が作品を次々と発表し、堀昇や筒井康隆や光瀬龍といった新鋭がぞくぞくと出現してきた、SFジャンル全体がかっかかっかと燃え上がっていくまさに「草創期のわくわく感」が存分に詰まっている。そしてそうした懐古的な視点だけでなく、柴野拓美さん自身のSF論は、今でもまったく古びない物として読めるし、何より氏の全身全霊でSFというジャンルへぶつかっていくそのファンとしてのあり方、熱量の持ち方は、僕のような門外漢的なSFファンの心も熱くするだけの力を持っている。

SFファンとしての在り方

僕は世代からかなりズレていることもあって柴野拓美さんの名前はいろんな本で目にするものの、『宇宙塵』という同人誌がいろんなSF作家の排出元になりSF同人誌としていかに異色だったのかについて多少知っているぐらいで、その功績や人柄、ましてやSF観についてよく知っているわけではない。いろいろと興味深いところの多い本書だが、中でも僕にとっては「ファンとして徹底的に一ジャンルに向き合うとはどういうことなのか」を考えさせてくれた貴重な一冊だ。

僕自身は非常にぬるいSFファンである。SFというジャンルに好きな作品が多い、それは確かであるが、ジャンルの発展と成長を願って全体に深くコミットしてきたわけではない。活動としてあげられるのは、せいぜい好きなSFや好きそうなSFを読んで、こうしてブログに書くぐらいのことである。あとはまあ、たまに読書会を開くぐらいか。他者主催のファンコミュニティや、SF大会やファン交流会のようなものに参加したこともない。つまるところ僕の活動はここまでずっと個人的なものだ。自分の満足のために読み、自分の満足のために書いている。

そこには「SFジャンルのために」という視点は存在しない。一方で柴野拓美氏の書く文章は、たとえそのこと自体を特別なテーマにしていない場合でも、長年同人誌のフィールドで活動し、その経歴のほとんどを教師として過ごしていただけに「ファンとして」SFジャンルとどう向き合っていくのかという姿勢とそこから生まれる思考が随所にあふれている。その姿勢自体はどういうものなのか、についてはなかなか難しいところだが、常にジャンル全体のことを考え、金の為の仕事としてよりも自身の熱情を軸に、SFジャンルという全体を見据えた上で数々の仕事をこなしてきているところは特筆すべきところだろうか。

ジャンルにとってよくないと思えば筆をとって反論をあげ、発展や広がりが見えれば我が事のように本気で喜んでみせる。『生涯SF漬けで過ごすことになった』と自身で書いているように、まさに人生SFであり、そのコミットメントの深さは、評論から創作、作家の発掘、育成、さらにはファンコミュニティの醸成とあらゆる角度から行われている。こうした活動の数々が一冊のまとまった本としてみるとそのスゴさが概観でき、呆然としてしまう。質・量、どちらをみても、とんでもない仕事量だ。

ある意味こうしてジャンル自体へ自分自身を同一化させるかのごとくのめり込むのは、分析や解説的な文章や客観視する必要が求められる氏のような立場だと大変なことも多かったのではないかとも思う。溢れんばかりの熱情とのめり込みこそがファン活動の一種の熱量に変換されるのであって、理性的な分析とは両立させられるものなのか、整理された熱情は熱情として機能するのかと疑問に思う。しかし氏の文章には、俺はこの作品の、この作家のファンなんだという熱情と、あくまでもそれを理性的に分析してみせる理性とが渾然一体としており、文章全体の説明しがたい魅力に繋がっている。

長い前置きになってしまった。本書は氏のSF語りを大量に収めたものになるが、いくつかのパートにわかれるので簡単に紹介しておきたい。まずひとつは氏のSFとの関わりをまとめた自叙伝的な文章をまとめたパート、氏のSFとはなにかといった思想を表現しているSF論のパート、もっと軽く読めるエッセイを集めたSF随想のパート、SFのテーマについての概説をまとめたSFののテーマ概説のパート、SF史について書かれた史実パート、作家論・作品論をまとめたもの、作品評をまとめたものなどなどが続く。

SFとは何か

どのパートもそれぞれ貴重で興味深いがやはり氏自身のSF観の表明になっているSF論のパートと、作家論・作品論、作品評あたりが特に面白かった。僕はSFとはなにか、といったことには、あまり興味はない。ガンダムがSFかどうかなんて心底どうでもいいしレイ・ブラッドベリがSFかどうかなんてどっちだっていいよという他ない。それは各人が喋ったり文章を書いたりする時に「今回はこのあたりの作品まではSFということにして扱います」とでも宣言しておけばそれでいいものであり、通常時にそこまで特定の作品がSFであるか否かに拘る必要があるのかと思う。だからやたらと定義論にこだわる理由がよくわからなかったのだけど……。

しかしやはりジャンルファンを自称する以上は、そのジャンルが何かもわからない、あやふやで不明瞭なままでは「好きです」と自称する根拠すら不明瞭になってしまうものなのかもしれない。だからこそ自分なりにSFジャンルに向きあおうと考えた時に、誰もが自分なりのSF観、自分ががっつり取り組む物は「こういったものです」という宣言を必要とするのだろう。本書にも当然柴野氏の「SFとはなにか論」が掲載されている。僕自身は別にそれを採用するわけではないが、柴野氏のSF観を理解する上で非常に興味深く読んだし、これは確かに一つのSFのあり方だと思う。

作品評について

当初ずっと月刊で運営されていた宇宙塵の、柴野氏の月評などから作品評を再録したもの。これが素晴らしいのは、当時のSF新刊のほとんどに触れている時代性と、それをばっさばっさと時には褒め称え、時にはばっさばっさと斬っていくその痛快さにあるだろう。クラークの『幼年期の終わり』が翻訳され、ベスターの新刊が出て、光瀬龍や山田正紀がデビューし作品を次々と発表、筒井康隆が商業出版デビューし、小松左京がデビューし、『果しなき流れの果に』を連載している時代なのだ。なんなんだその燃え盛っている時代は。

たとえば小松左京の『日本アパッチ族』がリアルタイムで発売されるような時代なのだから羨ましい。また未来からやってきたのですか? と思うほどの大局的な目も確かだ。

 おそらく日本SF史上最高の大衆性を発揮したこの傑作は、ちょうど米国SFの発展期にスペース・オペラが果した役割のように、日本的なSF文学の開花の一つの基点にすえられるべきものではないだろうか。

こうして今我々の時代からは、小松左京も筒井康隆もみな評価の定まった、巨匠という他ない偉大な作家達だが、当時はまだぽっと出てきた「すごい新人」でしかなかった。だからこそその後この作家たちがどうなるのか、いったいどんな偉大な作品を生み出してくれるのか、あるいはここがピークで終わっていってしまうのかというドキドキ感があるし、凄い時代が始まりつつあるのだという高揚感に包まれている。たとえば筒井康隆の初短篇集については、絶賛をおくりながら、同時に不安感も表明している。

 筒井康隆『東海道戦争』(ハヤカワSFシリーズ)。筒井の処女出版短篇集。彼の真骨頂をみごとに浮き彫りにした一冊である。「うるさがた」「お紺昇天」の洒落気、「トーチカ」の才気、「群猫」「廃墟」の極限意識、そしてそれらを統合した「東海道戦争」の華麗さ……なみなみならぬ才能のキャパシティだ。ただ一つ心配なのは、新作の「チューリップ・チューリップ」に見られるマンガ的な奔放さが何を意味するのかということ。もしかすると、SF作家としての彼はすでにその絶頂にいるのではないか? まさかと思うし、また既成の文やにこだわらずに新境地の開拓をすすめてくれるなら、それはそれでいいのだが、ファンのひとりとしては、願わくばその懸念が杞憂に終ることを祈りたい。

もちろんその後の筒井康隆の活躍を思えば、そこが絶頂などということはまったく起こりえなかった事態ではあるのだが。そうか、当時はこんな見方もあったのかと新鮮だ。痛快さの方もさすがで、月にいくつもの作品について触れていくのでそうそう文章量を費やせるわけではないのだが、小松左京の作品にたいして「小松氏の作品は、面白いことは面白いのだが、どうもこのところ少し器用になりすぎているのではないだろうか。」と軽くふれられていたりして、「うわーすげー小松左京に駄目だししてるぞー」と思ってなんだか異常に嬉しかったりする。

全体を通して

僕自身が一貫してファンの立場にいるからかもしれないが、本の解説や書評のようなものでは、分析的や解説、紹介的に情報が述べられていくスタイルよりも、むしろ自分の人生観や価値観を押し出し、時にはだだもれになる愛情が文字に変換されたようなエネルギー量を叩きつけたような文章が好きである。氏の文章は、もちろんプロなのでそこには徹底した理屈が通っているのではあるが、同時にジャンル全体が大好きなのであるという感情そのものが伝わってくるようでもあり、エッセイだろうが随想だろうが映画評だろうが小説評だろうが、非常に魅力的な文体である。

またほとんど一言で切り捨てている作品に対しても嫌な感じよりもむしろ愛情を感じるのは氏のSF観が変更を迫られながらも常に一貫しており、その都度の判断にそこまでのブレが見られないからだろう。そういう意味で言えば本作に大量のSF評と、氏のSF観たるSF論が一緒に収められているのは誠に素晴らしいことで、価値を一挙に押し上げているように思う。

SF史として重要な一冊でもある。ファンとは何かを問うた一冊でもある。ファンと、それから理性的な評価者である氏のあたたかみと分析の読み応えあるSF評論集でもある。SFジャンルを多面的な角度からみることのできる、非常に満足度の高い一冊だった。

柴野拓美SF評論集 (理性と自走性――黎明より) (キイ・ライブラリー)

柴野拓美SF評論集 (理性と自走性――黎明より) (キイ・ライブラリー)