『非合理な常識よりも、非常識な合理を採る。それが自由への道である。』と『自由をつくる 自在に生きる』で森博嗣先生は書いたが、本書はまさに「常識の中に非合理を見つけ出す」講義集である。100の講義とあるように、1つの発想に対して2ページ、それが計100個ある。この発想は目次に書いてあるのだが、鋭くて痛い。
僕も随分たくさん、先生の本を読んできたが、読むたびに自分の中にある不自由への発見がある。読むたびに「ああ、なんて不自由なんだろうか」と嘆息する。都会の喧騒について書いた講義『よくもまあこんなところに大勢が住んでいるものだ、と思う。それが都会』では、都会がどんなにうるさくて、人と押し合うほど近づく電車に載る人達への疑問を書いている。
でも、仕事がある、学校がある、家庭がある、ここに家があるんだから、しかたがないじゃん、と都会の人は言うだろう。自分の好きなところに住めるってことも、きっと知らないのだろうな。
こういうのは、けっこう痛い。僕は都会に縛り付けられている。仕事があるし家があると思っている。でもでていこうと思えば、でていけるんだよねえ。田舎だろうが、ロシアだろうがイギリスだろうが。行きたいと思えば、どこにだっていけるはずだ。もちろん様々なものとのトレードオフによって、だけど。
でもどうもまだまだ不自由さは抜けていない。いきなり自由にはなれない、ということなのだろう。当然だ。でも問題・不自由さを認識しさえすれば、突破しようと思考することが出来る。僕が森先生の本を読んで一番勉強になったのは、きっと自分が不自由であり常識に縛られているんだと気付かされたことなのだろうなと読みながら考えていた。
不自由さを自覚するのは難しい
『天冥の標』シリーズでは宇宙規模で発展を遂げた人間がそれでも万物を扱う精霊として「煙霧の霊(ガイマー)」という精霊を信じているところが描写される。(人間は計器ではなく、自然を正確に把握することなどできはしない。が自然を受け取る形は、自分なりに受け取った形でしか呑み込めない)。各人自分にとってしっくりくる形で自然というものを受け入れる。そういって天冥の標でガイマーの霊を信じる人間は納得している。
これと関連して、アマゾンの一部族であるピダハンの研究をした本を読んでいたら、この部族は「イガガイー」という名前の雲の上の存在の精霊を通して世界を認識しているらしい。なんとなく名前が似ているので気になった。ピダハンの人達は「イガガイーがいるぞ!」ていうんだけど、著者には見えないんだよね。
自分の先入観や持っている文化で、目に見えてくるものまで違ってくるのだからこういう思い込みを外す(見えているものが間違っていると自覚する。あるいは正しいという客観性を担保する)っていうのは随分難しいことなのだよなあと読んでいて思う。
非常識というのは、単に常識に対してなんでも反対するという事ではない。常識に対して反対し、他人を納得させられるだけの理をとなえてこそ、はじめて価値の有無が決まる。しかしその為の客観性はどう担保されるのか? 同じ場所をみていても方や精霊をみて、かたや何もみない人間の間に理が唱えられるのか?
僕は客観性の定義について森先生の言葉をよく覚えている。うろおぼえだがこんな感じ。一本の棒と、それが入るのか入らないか微妙な大きさの穴があったとき、「これは入るだろう」と言うのが主観で、試しに入るか入らないか入れてみるのが客観であると。この定義は常に自分が主観で物を言っていないかどうか、自分でチェックする時に思い返している。
もちろん理を追求し、ひとを説得するのは容易なことではない。思い込みや自分の中の世界観というのは強いもので、目に見えることさえ歪めてしまう。が、常識を疑って、自分の道を考えてつくっていこう。
- 作者: 森博嗣
- 出版社/メーカー: 大和書房
- 発売日: 2012/07/21
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