基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

アナログとデジタル

森博嗣さんの直近の著作に『常識にとらわれない100の講義』の中の一講義に「文系の人は、もの凄くデジタルだな、と思う」という話がある。これは森博嗣さんの著作の中でも割合繰り返し語られている話で、もう何度も読んだことがあるのだけど、その度に頷くことしかりだ。

言っていることはこういうことだ。記憶はアナログであり、言葉にする時に「言葉」というデジタル記号に変換される。森博嗣さんは小説を読む時は文章という記号をアナログ──つまりは記憶と同質のものに展開し、その為データ量が増す。『しかし、いったんアナログに変換されると、それは自分の経験と同じものになるから、僕は小説を再読することはない。』

なるほどうなずける話だ。一方で文系かつ小説をたくさん、速く読むような人たちは記号を記号として受け止めているので読んだ端から物語を忘れてしまう。たしかに僕も、読んだ小説の話をすぐに忘れてしまう。正直いって、読んだ記憶があるだけであらすじをまったく思い出せない小説なんか山ほどある。ある意味それは読んだとはいえないのかもしれない(もっとも僕はそう考えないが)。

読んだ本のあらすじを忘れないし再読もしないと森博嗣さんはいうが、しかしどうにもこのへんが僕には曖昧なのですよね。何しろ僕は自分の記憶さえかなりあやふやで、時系列がさっぱり思い出せないんだから。たとえばひと月前の7月の3連休に、石垣島で3日間遊んできたのですけど、あとになってとった写真を日付別に分けなおしていた時に、「これをやったのは何日目だったっけ……??」っていうのが全然わからなくなったりした。

1日目にあったことを2日目にあったことと勘違いしていたり、2日目にあったことを1日目にあったことと勘違いしたりしているのだからしょうがない。しかもほんの数日前にあったことなのだから。だから僕はどうにも「アナログに展開したから物語を忘れない」という論理はどうにも森博嗣さんの特別な記憶力に由来しているのではないかと疑ってしまう。小説を自分の経験と同質のものにするどころか、自分の経験すら自分の中から消えていってしまうんだから。

でもこれがもし僕が極度に忘れっぽいだけならとても悲しい話だ。まあ、その代わり何度でも驚き、何度でも同じ小説を楽しく読めるということになるからそれはそれでいいのかもしれないが。あるいは僕は自分の目の前にある現実、経験すら、まともにアナログ変換できない極度なデジタル人間なのだろうか? 不思議だ。アナログに展開させながらきっちり小説を読んでいる人の意見をきいてみたい。