基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

評価について

評価について。どんな時に「評価されている」と感じるのか。本当の評価なんてものがあるのか。何を目的にして何かをするのか。評価というのはたとえば特にブログ記事を書く場合には必要なものではない。が、あると嬉しいものではあるだろう。しかし、評価についてどう考えればいいのか? といったことを特に結論を出そうとせずにぐだぐだと考えるために書く。

本で言えば売れているからいいものではない。当然ブログでいえばブックマークがたくさんついた記事がすべていい記事なわけがない。ブックマークは「生活の役に立ちそう」とか「TIPS的であとで読み返しそう」というものが圧倒的に有利で、はてぶがされているからいい記事だと言い切るには当たり前だが多くの要素が言い落されていることがわかるだろう。

僕ははてなブログで書く前はずっと楽天ブログで書いていて、そこでは2年近くアクセス数が20ぐらいの日々だった。しかも自分が10だったからほとんど誰にも読まれていないといってもいい。しかしある時様々な理由から楽天が嫌になり、はてなブログに記事をうつしたら、アクセスが即座に1日100ぐらいになった。5倍だ。つまり場所にそれだけアクセス数は依存するのだ。

はてなの場合はアクセス数もはてブに依存するから、本当の意味での評価の尺度にするにはアクセス数もはてブ数もまったく意味が無いと考えることもできるだろう。それらは所詮場や、システムの特性に依存した一面的な評価でしかないからだ。そこまで考えると「場やシステムに依存しない評価なんてあるのか?」と疑問が湧いてくる。

まあないでしょう。どんな文章、絵、企画を発表するにしても環境や時代やシステムの特性にいくらかをおっているのだから。そりゃあ絵画や音楽みたいな芸術だったら何百年も残ることで本当の評価につながっていくのかもしれないけど個人が意識するようなレベルではそんな話ではないしね。

たとえば。仕事で直属の上司に褒められたとする。それはまあ評価されているといっていいだろう。その人個人という属性によって、評価されているのだ。しかし会社組織といった大きな枠組では評価されているわけではないとしよう。そんなことはいくらでもある。これもまた人や環境に依存しているわけだ。

だからなー。まあ結論はないんだけど。客観的な「本当の評価」なんてものは誰も与えてくれないんだから、自分はどれを信じるのかってところなのかなあ。他人の評価、自分の評価、信頼する友だちの評価。たとえばアクセス数だってさっきくさしたけど、ダメダメなやつは誰も読まないんだから、ある程度その数にシステムや場が影響しているっていっても、それに興味を持った人間はいるってことなんだよね。

それを「評価」だと思うかってことなのかな。たとえばネットに作品を発表する人がいる。それはクォリティがすごく高いのに、アクセスがまったくない。あるいは、売上がまったくない。そんなのは当たり前で、やっぱり場を把握したやり方が求められるわけ。たとえばネットで言えばランキング形式とか、ニコニコ動画に発表するとかね。

だから仮にネットだろうがなんだろうが物を発表して、まったく何の反応もなかったからといってその作品がダメだと思う必要はないし──、反対に何らかの形式ですごく評価されているように見えたとして(ブクマが1000超えてアクセスが1日何万もきたとか)もそれはひょっとしたら自分自身とはまったく別の要因で評価されているかもしれないよねってことで。

「何を自分の評価基準にするのか」ってことがいいたいんだよね。「自分の自分に対する評価が絶対である」っていうんだったらたとえば誰にも見向きもされなくても何の問題もないわけで。仕事だったら「自分の所属している会社」で評価されたいのか「所属している業界」で評価されたいのか「業界外」まで含めて評価されたいのかで戦略も変わってくる。

だから本当の評価とは何かっていったら、自分はこの評価を目指すっていう自分の戦略方針からくる評価に他ならない。他人がとやかくいうことではなく、自分ではっきりとそれを意識した時点で、はじめてスタートラインにたてる。

もちろん「自分の自分に対する評価しか信じない」みたいなかたくななヒトはほとんどいなくて、いろんな評価軸を自分の中で混ぜあわせてみんな自分なりの「評価マップ」を作っているんだろうなあ、と愚にもつかないことを考えてみたわけでした。僕は書かないと考えられないんだよなあ。