基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

それでも、読書をやめない理由

『それでも、読書をやめない理由』を読んだ。それでも、とはどういう意味だろうか。これは本の虫であった著者が、テクノロジーがもたらすノイズによって、突然本に集中することが難しくなったことからきている。そんな風に集中することができなくなっても、読書をやめない理由があるんだ、ということだ。d;">しかし何かと注意が散漫になりがちなこの世界において、読書はひとつの抵抗の行為なのだ*1とあるように、読書は世界に耽ることであり、時間をかけるものであり、つまりは「集中」するためのものである。

ネット依存に対するカウンターとしての読書という視点は、今タイムリーだろう。⇒ネット依存について思うこと | blog.yuco.net こことかを詠む限り、なんかテレビでも特集が組まれていたりしたようだ。しかし書籍としてはずっと前からその危険性は指摘されてきた。⇒毒になるテクノロジー iDisorder - 基本読書 テクノロジーは毒ではあるが、しかし魅惑的な毒だ。

TwitterFacebookは人間の認知機能を突いて、依存状態に落としこむ。人間はほんの少しの情報が、断続的に更新されると注意をそちらに強く向けるように設定されているのだ。Twitterなどはこの点をうまくついて人気サービスに成り上がったが、Twitterにハマり込む人間は自分が「ボタンを押したら脳内に快楽物質が出るから餓死して死ぬまで押し続けるネズミ」の何歩か手前のような状態にいることに気が付いていないのではないか。

もちろん良い点もある。僕もTwitterのおかげで会うことになった人が……一人か二人はいる(人見知りなのだ)。交流はほとんどしないしそもそも必要としていないがまあそれなりに楽しんでいる(だいたいあれ、一人カラオケみたいなもんだし)。でもTwitterでチャンスを掴んだ人もいれば、交流が広がった人もいるだろうし、救われたって人もいるに違いない。

ただ認識しましょうね、という話だ。「そのネット依存、認識の盲点を突かれてるんじゃない」って。5分に1回Twitterを見たり、ご飯を食べている時も歩いている時もiPhoneで何かを読んでいる、勉強している時や本を読んでいる時も常に傍らにiPhoneがあって見ている、なんて言うのは、冷静に考えて欲しいのだが「おかしい」でしょうって話だ。

しかしこれが難しい話。禁煙がなかなか成功しないことからもわかるように依存から抜け出すのは難しい。それというのも、今では自制心というのは限られた資源であり、使いすぎると枯渇するという証拠が増えてきている。ネット依存から抜け出すためにネット断ちするとして──その場合その他の仕事にむしろ集中できなくなることがある。

本のレビューにもどろう。本書のおもしろさは、そうした「テクノロジー依存への抵抗としての読書」ちう側面には、実はない。だってこんなのただ「読書は集中を必要とするツィ、辛抱強くやらなければいけないし、ようするに読書はひとつの瞑想的行為なんだよ」ということしか言っていない。「本を読んで集中しましょうね」ってことだ。

本書のおもしろさはそこに至るまでの過程、「読書はなぜ素晴らしいのか、なにがおもしろいのか」が熱意たっぷり、過去の作家の名言をたくさん引用しながら、語っていく。「物語とは何か」の本なのだ。

カート‥ヴォネガットは、文学とは観客自身が楽譜を演奏できる唯一の芸術だと語り、ジョーン・ディオンは「わたしが書く理由」というエッセイの中で、わたしは、もっぱらみつけるために書く。自分は何を考えているのか、何に直面しているのか、何がみえているのか、それは何を意味するのか。何が欲しいのか、何が恐ろしいのか、と書いた。

読書は著者と読者の相互作用によって展開する。だから本書は物語を書く側についての記述もたくさんあって、おもしろかった。実際物語の中でとった行動は、現実世界で似たようなことをしたり、創造したり、みたりするときに活性化する脳領域と同じであるという。物語をただ詠むだけではなく、僕らはそれを脳内で再演させている。

テクノロジーから身を守る方法は「読書をしろ」だけでは恐らく対処不可能だろう。それにはまた別の有効な手法を考えなければいけないと思う。しかし物語を読む楽しさを謳い上げる本書を読めば、久しぶりに部屋で再生されないままに放置されているあの本やあの本を読もうという動機が生まれるかもしれない。

それでも、読書をやめない理由

それでも、読書をやめない理由

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