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人が生きていくためには物語が必要だ『敵は海賊・海賊の敵 (ハヤカワ文庫JA)』:神林長平

神林長平先生の戦闘妖精雪風に並ぶ人気シリーズ『敵は海賊』の最新刊が6年振りに発売された。こうして時間が経っても淡々と、当たり前のように出される新刊がとても嬉しい。毎度変わらぬ海賊・匋冥にこれを取り締まるアプロ、ラテルの迷刑事、彼らが巻き込まれるのは宗教概念を巻き込んだフィクションとリアル、その均衡を求めたひとつの戦いであったといえる。

神林先生の作品テーマにはいくつか共通したものがある。そのうちの一つが、『人間はフィクションがなければ世界を認識できない』とする世界認識と、『リアルな世界をそのまま認識したら耐えられない』とする世界認識だ。僕らは眼でみ、耳で聴いて、鼻で匂いを嗅いで世界を構築しているが、それらは人間の能力限界までで、たとえば超音波などは聞くことができない。

だから僕達はありのままの現実をとらえることはできない。編集され、さらには思い込みなどで歪められた現実をみな自分の世界であると捉えている(神を信じている人からすれば、此の世界に神はいるものとして構成されるが、信じない人からしてみれば神は世界の構成要素にならない)。神林先生のテーマというのは今、そうした生きていくために必要な「フィクション」をどうハンドリングしていくのかといった問いかけに入っている。

さて、小説を語るにおいてテーマはやりやすい話題だが、「面白さ」みたいなのはそこにはほとんど依存しない。特に敵は海賊という小説で僕が好きなのは匋冥の唯我独尊、どんなものにでも縛られないその姿勢と、彼に付き従うまわりの人間のあたふた、そして敵対しているラテル・アプロコンビ、そしてラジェンドラの三者からくる無茶苦茶さからくるひとつのドタバタだ。

なんと今回の語り手はラジェンドラである。最初にテーマの話からはじめたのも、そのほうがラジェンドラが語り手であることの意味が明確になるからだ。ラジェンドラは人間的な人格を仮想的にシュミレートできるが、一方でその本質はシステムであり「剥き出しのリアル」に所属する存在であるといえる。しかし人間たちの世界で起こる揉め事は大抵誰もが持っている幻想、フィクションを相手に行われる。だから、リアルな世界に属するラジェンドラはそれを物語形式に求めた。リアルがフィクションを理解するための術として。

敵が海賊なのはいつもどおりだが、今回は海賊の敵が出てくる。海賊の敵は海賊課だろう? と旧来からのシリーズ読者ならば思いそうなものだが、本作では別の視点が開陳される。海賊とは、弱い。剣を持っている相手には銃で戦わなければならない。海賊は優雅な生き方ではないし、ただ自由なだけの生き方でもない。自由を維持するために、ただやるかやられるか。非情なリアリズムが支配する世界である。

「中身も知らずに、そう言い切れるんですか」と怖いもの知らずのポワナだ。「幻想ではなぜいけないんです」
「腹を満たすことができないからだ」と匋冥。「他人が提供する幻想を信じるなど、愚か者のすることだ」
「あなたは、なにを信じて生きているんですか」
すると海賊は、即答した
「おれか。おれは、自分を信じている。いまの、この、自分だ。当然だろう。過去の自分は変えられない。未来の自分は存在を保証されていない。だから、海賊をやっている。海賊には、過去も未来も存在しない。海賊をやるしかない、というリアルを生きているんだ。なんの幻想もそこにはない。ただ、生きている。それだけだ」

ならばその「戦い」の中を生きる海賊たちからしてみれば「幻想」にひたっているものたちは「海賊の敵」だといえるのではないか。匋冥は本作で期せずしてその存在を脅かされることになる。匋冥教を名乗るものたちが出現し、匋冥を神と崇め、現実の匋冥を偽物だとして、意図しているか意図していないかはわからないものの、匋冥、その実在を消そうとしたのだ。

当然、匋冥はこれを嫌う。縛られたり、操られたり、虚像を持ち上げられたりするのが大嫌いな男だ。ここに、海賊課の刑事たちは関わってくるが、今回彼らは主役ではない。匋冥が、いかにして神を叩き潰すのかという、そういう話なのだ。幻想を潰し、物語が、終わる。テーマとプロットが密接に関連し、最後、ひとつの台詞に物語は収束する。

デビュー30周年を超えてなお熱い。シリーズ物、それもコメディ寄りともなれば、出るたびに惰性や踏襲が増えてきて真新しさはなくなってくるものだ。しかし本作にはなお、一切妥協しない技術と熱さが煮えたぎっている。

敵は海賊・海賊の敵 (ハヤカワ文庫JA)

敵は海賊・海賊の敵 (ハヤカワ文庫JA)