基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

わが母の記 (講談社文庫)

どうやら映画にもなったらしい『わが母の記』。年老いて、完全にぼけて一日に何度も同じ話を繰り返したり、どんどん年齢が退行しているようにみえたり、娘や息子や夫の記憶を忘れていく母親との記述が続く。人間と人間の関係というやつは「憎みあっている」とか「愛し合っている」などというシンプルな言葉で表現しきれるほど簡単なものではないが、井上靖さんの文章はそうした複雑な感情を解きほぐすように書いていく。

あまりにも当たり前の話なのだけど、人は老いて、ボケたりボケなかったりして、身体はどんどん衰えていって、そして長生きした場合はしぼむようにして死んでいって、最後には焼かれて灰になるのだなあということを考える。そうしている間にも人間がうまれていて、そいつらは30年後にも元気で、僕は身体はガタガタで偏見に満ちているかとっくに死んでるか重病で死にかけているかしているんだろうなあ……と思うともうだめだあああ。

と悶えたりしながら読んだ。老いるってことはさ、自分が今まで当たり前にできてたことが段々できなくなっていくことなんだろうね。

まあなんというか両親との関係とか、老いとの関わりというのは難しいものだと思う。家族のつながりだけで、自分が忘れられていくことや、何度同じ事を言ってもぼけてしまってきいてくれなくて、怒られて、他人のように扱われたらたまらないだろう。でも、今の自分があるのは何をどう理屈をこねても両親がいたおかげなのであって、そして今の自分の考え方を作ってきた影響に、両親の影響というのは色濃く残っている。

かといって子どもが年老いた親の介護をするべきで、それが美談であるとする考え方は馬鹿げている。僕は親の介護なんかしたくはない。単純に負担だから。でもお願いされたら、仕方がないと思いながらきっとなんとかしてやるだろう。でも仮に自分に子どもがいたら、そんな負担はかけたくない。できるかぎり施設で、他人に面倒を見てもらったほうが気楽だ。どちらが正しいというものでもない、信じる方を選べばいいだけの話。

この本には、「世界を感動で包んだ昭和日本の家族の物語」とあるけれど、映画は感動的なのだろうか。この本から感じたのはそれよりむしろ「解放」のような感覚だった。「死んで嬉しい」とは誰も言わないし、書いていないし、当然そんな感覚ではないだろう。でも両親が死ぬということは間違いなく何か一つの区切りであって、自分を縛り付けてきたものからの解放を意味するのだと思う。

決して感動的に盛り上がるわけでもなく、憎悪で盛り上がるわけでもなく、淡々と綴られて、そして死までを書ききるその静謐さが、素晴らしかった。老いて、介護され、いろんな思い出をぼろぼろこぼしていきながら、最後は死ぬんだなあってね。当たり前に思えるような作品なのですよ。

わが母の記 (講談社文庫)

わが母の記 (講談社文庫)