幸福の遺伝子はリチャード・パワーズによる最新著作。えーと英語版では2009年出版(あとで書くが、けっこうすごい。)。日本語翻訳されたものの中では7作目かな。まだ4作未訳のものが残っている(とはいえパワーズにとってもこれが最新だと思う。)。パワーズの歌うような文体は本作でも健在。テクノロジー(遺伝子)と人間心理の融合であり、また作家の視点によって語られる二人称の物語(メタフィクション)。遺伝子が人間の性質を決めるのか? という問いは、創作者は物語の性質を完全に制御できるのか? という問いに重なっている。創作についてと、遺伝子の表現形たる人間についての物語。
彼女が幸せなのは、遺伝子のせい?鋭敏な洞察の間に温かな知性がにじむ傑作長篇。スランプに陥った元人気作家の創作講義に、アルジェリア出身の学生がやってくる。過酷な生い立ちにもかかわらず幸福感に満ちあふれた彼女は、周囲の人々をも幸せにしてしまう。やがてある事件をきっかけに、彼女が「幸福の遺伝子」を持っていると主張する科学者が現れ世界的議論を巻き起こす――。現代アメリカ文学の最重要作家による最新長篇。
本作が出版されたのは2009年だが、2012年には実際にこの『幸福の遺伝子』が実際に発見されたと話題になっていた。幸福の遺伝子、または喜びの伝達物質 - 山形浩生 の「経済のトリセツ」 その前に前提知識として。一卵性双生児と二卵性双生児を比べる調査で、行動のかなりの部分が遺伝に左右されることが現在ではわかっている。双子の実験についてはこっちを参照⇒遺伝子と環境の相互作用についての2冊 - 基本読書
そうした研究の中で、幸福度といったものもかなり遺伝することがわかってきていたのだが、それが具体的に何に起因することなのかというのはわからなかった。そして、上の記事で明かされているのは幸福度はだいたい3分の1は遺伝子によって左右されるということだ。簡単に要約してしまえばセロトニンという長いのと短いのがある分子で、長いのが多い人のほうが幸福度が高い結果になった。
本作は2009年の時点に書かれたものだから、具体的に「幸福の遺伝子」なんてものがあるという確証的な話は何もない時だ。具体的にこの遺伝子がそうだ、という話はなく、描かれるのは「幸福の遺伝子があったら、人類は生まれる前にそこをいじくればみんな幸福じゃないか。幸福になって、なぜいけない?」という答えるのが難しい問いだ。
日本ではないが、既に事前に遺伝子組み換えを行なって、健康な赤ちゃんを産んでいる事例もある。World's first GM babies born | Mail Online あらかじめ病気にならないような、遺伝子を操作した赤ちゃんを生むことが許されるのならば(上の事例はそういうわけではないが)──あらかじめ幸福になるように遺伝子を操作して、赤ちゃんを生むことも当然許されてしかるべきなのではないか? 不幸は、病気なのか。 今まで不完全だった人間の、是正されるべき部分なのだろうか?
最初のリンク先で山形氏も書いていることだが、それはそのまま「じゃあ副作用のない多幸感を生むドラッグがあったら、みんなそれで満足なのか?」という問いに繋がる。ほんとにそれで満足なの? そんな遺伝子があったとして、それをいじくってすむ問題なのか。本作がフィクションとして優れているのは、それがメタフィクションとしての構造として二重に表現されているからだ。
本作は神の視点から語られる物語だが、語り手は「私」という形で随所に顔をだす。そして作中の人間たちが、フィクショナルな存在であることも最初から明示される。描き出される主人公は、元人気作家だが今はスランプに陥って物語を書くことができない。物語を書くとは──ある意味では登場人物に過酷な道程を強いることだ。障害をおいて、飛び越えさせること。登場人物たちを絶望に陥れることにほかならない。そうしなければ、カタルシスがうまれない。最初から誰もが幸福であるのならば、そこにフィクションは産まれない。
本書のメタ的な著者は登場人物たちを苦難に叩きこむのを常に恐れる。『遺伝子が人を支配するなら、作者は小説を支配する。人が定めから自由であるなら、小説の登場人物もまた作者から自由なはずだ。でもそれでは小説は書けない。パワーズは書いた。悲鳴のように、笑い声のように』 と円城塔は帯文で書いたけれど、まさにそのとおりだ。パワーズの書くメタ著者は最後まで登場人物が無傷で生き延びることを望みながら、それでもなお登場人物を苦難に叩きこむ。
テーマにたいするフィクションとしての回答はいつものように感動的に立ちあらわれる。問いがシンプルなだけに、答えもまたシンプルだ。ついでにいえば、プロットも大変シンプルかつわかりやすい。Book Review - 'Generosity - An Enhancement,' by Richard Powers - Review - NYTimes.com パワーズのイントロダクションに最適ともある『“Generosity,” is an excellent introduction to Powers’s work, a lighter, leaner treatment of his favorite themes and techniques.』通りの内容で、パワーズを今まで読んだことがない人も読んでみると、偉大な作家に触れることが出来ると思う。
- 作者: リチャードパワーズ,Richard Powers,木原善彦
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2013/04/26
- メディア: 単行本
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