基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

絶滅動物をめぐる人類の葛藤を描き出す、絶滅動物長篇──『ドードー鳥と孤独鳥』

この『ドードー鳥と孤独鳥』は、『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』や宇宙をテーマにした長編小説『青い海の宇宙港』など、科学や生物学を中心におき小説からノンフィクションまで幅広く執筆してきた作家・川端裕人による最新長篇小説になる。タイトルにも入っているように、ドードー鳥(1600年代後半に絶滅)と孤独鳥(1760年頃に絶滅)をテーマにした、「絶滅動物」小説である。

著者はこれ以外にも自身が出島としたドードー鳥の行方を追って世界を走り回る過程を描き出したノンフィクション『ドードーをめぐる堂々めぐり 正保四年に消えた絶滅鳥を追って』も書いている筋金入りのドードー鳥ファン、というか探求者で、それに続く本作(『ドードー鳥と孤独鳥』)にも、ドードー鳥への愛が溢れている。

本作は絶滅動物たちの図版やそれにまつわる文献についての記述も多く、ノンフィクション的な側面も強い(そして、それが大きな魅力に繋がっている)小説だが、絶滅してしまったドードー鳥と絶滅鳥に自分たちを重ね合わせ惹き込まれていく二人の女性の物語、成長譚としても素晴らしく、”物語”と”絶滅動物関連の知識や、その背景について知ること”、どちらも堪能できる作品に仕上がっている。

絶滅動物はかつてその名の通り、過ぎ去っていって今はもういない動物たちだ。しかし、我々は現代では遺伝子編集の技術を手にしたこともあって、絶滅動物たちを懐かしむ以外の手段もとることができる。たとえば絶滅動物(マンモスとか)と似た種(象とか)の遺伝子を編集して、マンモスのような特徴を持った種を生み出すとか──。

本作はただ”絶滅動物”を扱っただけの小説ではなく、そうした絶滅動物をめぐる技術と社会にも光をあてているのが良い。

あらすじなど

物語の最初の舞台は房総半島の南部の町で、そこで暮らす望月環と佐川景那(ケイナ)の小学生女子二人が中心人物となっている。ケイナは環のいる学校に途中から転校してきたが、二人はすぐに友だちになり、自然と動物が好きなケイナに引きずられるように環もまた動物たち──中でも図鑑で知った絶滅動物たち──にのめりこんでいく。

中でも二人が特に興味を持ったのが、ドードー鳥と孤独鳥である。ドードー鳥は絶滅動物の代名詞といっても過言ではないぐらい有名な鳥だ。ずんぐりむっくりした体格をしていて、体高は約65センチ。体重は10kg台(かつてはもっと重く見積もられていた)。鳥にしては重く、羽も小さく、空を飛ぶこともできなかった。もともとインド洋のマダガスカル島東方に連なる一部の島に生息していたのだが、そこに導入されたイヌやネコがヒナを殺したため生息数は激減し絶滅に至ってしまったという。

一方の孤独鳥は知名度では何段も落ちるだろう。ロドリゲスドードー、もしくはソリテア(孤独鳥)と呼ばれる鳥で、ロドリゲス島に生息していた。おもしろいのが、名前の由来にもなった「孤独」さだ。島に2年間滞在したフランソワ・ルガという人物の航海記によると、「群れで見かけることはめったにない」。それどころか、捕まえるとたちまち鳴き声も立てずに涙を流し、どんな餌も頑として拒み、ついに死んでしまうという。なかなかエキセントリックな鳥だ。こちらはドードー鳥よりもしゅっとして細いが、それでもやっぱり翼は小さく飛ぶことはできなかった。

環とケイナはどちらも友だちの輪に入れないタイプの少女であり、二人はドードー鳥と孤独鳥に自分を重ね合わせるようになる。飛べず、体が重く、頭でっかちなドードー鳥が環で、ケイナの方は孤高を恐れぬ存在で、孤独鳥にふさわしいと。

絶滅動物をテーマにする意義の探求

二人はその後ある事件をきっかけに離れ離れになってしまうのだが、その後作中では時間が経過し、環は新聞社に就職し科学記者に。ケイナはカリフォルニアで脱絶滅に関するゲノム研究に取り組んでおり、再度二人の道は交錯することになる。

で、二人も大人になったことで、このあたりから最初に書いたような「絶滅動物と倫理と社会の関係」をめぐるテーマも顔をみせはじめる。たとえば環は記者として「近代の絶滅」を(子どもの頃からの関心領域だし)取り上げたいと思うのだが、商業的な仕事である以上、”興味があるから”だけでできるわけではない。過去にこんな魅力的な絶滅動物がいました、だけでは記事にならないのだ。そこで、環境問題や自然保護、あるいは土地と繋がる要素(環の配属は札幌支社)がないか、どうやったら、絶滅動物のテーマを多くの人に身近に感じてもらえないか──と悩むことになる。

このあたりは、実際にこうした科学・生物学分野のテーマのノンフィクションや記事を多数手がけてきた著者の実体験・苦悩もシンクロしている箇所でもあるのだろう。自分の興味・関心をいかに一般的なものと接続するのか。何しろ世の中には地震に火山に気候変動に感染症と多くの人が危機感を抱いている科学的なテーマはいくらでもあるのだ。その中で「絶滅動物だからこそ」の意義を見出さねばならない。

環境問題や自然保護と絡めるのはまっさきに思いつく要素だが、それ以外に何かないのか──と環は悩み、模索を続けることになる。

魅力的な絶滅動物たち

その模索の過程でドードー鳥と孤独鳥だけではない様々な絶滅動物に環が触れていくのだが、どれも魅力的な種ばかりだ。たとえば「ステラーカイギュウ」と呼ばれる動物がいる。体長が7メートル以上あって、主に海藻を食べる。群れで暮らし、外敵がいなかったため、彼らは家族や仲間を思いやる、社会性の強い生き物だったらしい。

彼らは仲間が捕まると、群れの中で近くにいたものたちはみな彼を助けようとする。それも、途中で死んだとしても近づいてきて、ずっとその側で待っているのだという。『社会性が強すぎて、次は自分が標的になるかもしれないときですら「逃げる」ことよりも、仲間のそばにいることを選んでしまったのだろうか。』(p74)

その特性が仇となって、大量の食肉(3.6トンもの赤肉と脂肪があった)を欲した人間によって狩り尽くされてしまう。ドードー鳥、孤独鳥、ステラーカイギュウ、リョコウバト、オオウミガラス──絶滅動物が絶滅した理由はそれぞれにみな異なっているが、今はもう会えないからこそ、そのエピソードは強く響く。

脱絶滅の意味を問う

遺伝子編集などを駆使して現代にリョコウバトやドードー鳥「のようなもの」を蘇らせることはできるかもしれない。しかし、はたしてそこに意味はあるのか。

たとえば極端な話ではあるが、2、3匹リョコウバトのようなものを作り出してどこかで展示・保護することに意味はあるのか。かつてリョコウバトが好んだオークやブナの森もほとんど残っていないのに? 逆にいえば、そうした「生態系を含むまるごと」を復活させるなら脱絶滅に意味はあるのか──など。リョコウバトを蘇らせる計画は現実に存在するが、それに批判で抗議活動を行っている勢力も存在する。

そうした、何のための「脱絶滅」なのか、というテーマも本書では探求されていくのだ。

おわりに

架空の技術は出てこないが、自然科学を含む「科学」を中心においた小説という意味では、本作はサイエンスフィクションであるともいえるだろう。箱入りの装丁も美しいが、本作の風景(文体も、描写も、そのヴィジョンも)も美しい作品だった。