基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

物語におけるレビュー者の視点について

レビュー者の視点による差というものがどうしてもあるわけで、レビューを読むときはそれを自分に当てはめて考えなければならないよなあと考えていた(好意的に、レビューを自分にプラスにしようと思って読む。という極めて例外的な場合に限った話だけど)。大雑把にわけてリアリティの問題、感情移入の問題、好みの問題に分けてレビューを読む時の注意点みたいなものを考えてみた。「自分と完全に好みの一致する」レビュアーなんて存在しない。

レビュアーが芸(というか技術というか)によって近づけてくれるかもしれないが、そもそもあなたのことを知って寄せてくれるわけでもないので、そこには必ず差分が存在する。自分にぴったり一致するレビューなんかないのだ。「だからレビューなんか読まないほうがいいよ」というのが正直な感想だけど、それでも何かを得ようと思ったら気をつけるべきことがいくつかある、という話。

リアリティの問題

たとえば「リアリティ」という言葉はひどく厄介な言葉で、人によって持っているリアリティが全然違う。だから人のいう「リアリティのある/ない」を信じると痛い目にあうことがある。極端な話、僕からすればある人間が死体を見た時にうわああと驚いてゲロまで吐き始めたら「おいおい、オーバリアクションすぎるだろ。リアリティないなあ」と思うところだけれども、それが「そうだよねえ、そういう反応になるよねえ」と思う人もいるということ。

ただし力学をやった人が全員ロボットアニメにたいして「リアリティがない」というわけでもないし、ほとんどの人がおくっている学生生活を似ても似つかないからといってライトノベルのハーレム物にたいして「リアリティがない」と非難するわけでもない。一旦『』に入れるのは、みんながやっていることではある。

またリアリティとはイコールで現実のことでもない。そんなことをいったらファンタジーもSFも書けなくなってしまう。会話なんか現実のまんま書いたらまだるっこしくてクソ作品になるだろう。「ねえ」「あ?」「あのさあ」「うん」「iPhoneがさ」「ああ、バッテリの消耗が??」「そうそう」「それで?」ってまだるっこしいわ!! 現実には物語に出てくるような長い演説みたいな台詞なんて誰も喋らない。でもほとんどの場合そんなことは突っ込まれないのである。

つまるところ魔法が出てくるファンタジーだろうがタイムトラベル物だろうが、そうした不可思議要素が何一つ出てこない作品であろうが、押しなべて現実でないものを表現している。リアリティが〜〜といって問題になるのは、そうした「現実に存在しない世界」の……整合性といったらいいのかな。リアリティとはいってみれば「架空の世界を構築するための土台」のようなものだと思う。

誰が見てもぐらぐらと揺れているほど土台が気づかれていなければ、見向きもしない作品になるだろう。ある場面で年寄りに席を譲った主人公がある場面で年寄りを蹴飛ばしていたら違和感を感じるように。ただもちろん「ある部分においてリアリティがない」ことはイコールで「つまらない」ということではない。人によってリアリティの持ち方が違うのだから完璧にリアリティのある作品なんて存在しない。

リアリティとはなにかみたいな話ばかりになっているけれど、そんな面倒臭いことをここで定義しようなんて思わない。ようはある作品を評価するときにレビュー者はレビュー者のリアリティでもって作品を受けるということ。「価値観」と意味が混在していってしまっているところもあるかけど、大雑把にいえば受ける側の持っているリアリティによって評価がまったく変わってくることがあるということが言いたい。

風立ちぬのレビューを見ていると顕著だったけれど、アニメ声の声優の演技が「うそ臭い」「オーバすぎる」「もっとぼそぼそと喋ってくれた方がリアルなのに」と思う人もいれば、一方そこに価値を見出す人もいるわけで、この場合は両者見たいと思っているものが違うことからズレが起きている。ゲロを吐いて死体に驚く人間をみてリアリティがあると感じる人間のレビューは、その一面にとっては僕には役に立たない。

明確に線がひかれているわけでもなく、実にあやふやなものだ。評者のリアリティの軸さえわかれば、自分の持っているリアリティとのなんとなくの差分を勘定にいれれば、より得られるものも多くなると思う。余談だがレビューを抜かして考えてみると、作家が文体や作風が作品ごとにほとんど変わらないのがこのリアリティ(価値観)だと思う。

感情移入の問題

次に感情移入の問題がある。これが結構厄介で、オタクな評者がオタクでイジメられている主人公が逆転快進撃を進めていく様に強く感情移入して最高傑作だ!! と褒め称えても、そのレビューを読んだ人間がオタクでなかったりイジメられていなかったりと共通体験を持っていないとまったくおもしろくない、といったことが起こったりする。ある世代に向けたネタ(たとえば団塊の世代とか)が満載だと当然それ以下の世代には受け入れづらくなる。

レビュー者にはこの感情移入を売り物にする人もいれば(自分と同質な人間がある程度いる場合には有効なレビューになるだろう)、感情移入はできるだけ排除して大多数の人間がどう考えるのかを想像して書く人もいる……と思う。前者にたいして「ふざけんな、お前の面白いっていってたやつ、全然おもしろくなかったじゃねえか!!」といっても不毛だし(とっとと離れるべし)後者に対して同じことをいっても同様である(そのレビュー者ターゲットの中にあなたが入っていなかったのだろう)。

一人の人間がずっと固定した立場を取り続けるわけでもない。前者だったり後者だったり、そもそも明確に分かれているわけでもないのでまじりあっていたりする。もちろん金をもらってつまらないと思っていても褒めている場合(しかし商業レビューの場合は大抵これなのかな。全然知らないけど)や、クソでも絶対に褒めるという強固なポリシーを持っている場合は考えるだけ無駄だ。それがお仕事なのだから仕方がない。

好みの問題

好みの問題があるけどそんなもんはどうしようもなさそうだ。スカトロが好きな人もいればツインテールが好きな人もいるし、黒髪ロングが好きな人もいればメガネが好きな人もいるし、細マッチョが好きな人もいればただのマッチョが好きな人もいるし、本格が好きな人もいればキャラ萌えが好きな人もいるし、ハードSFが好きな人がいればスペースオペラが好きな人もいる。廃墟が出てきたらそれだけで傑作だという人もいれば、日常系が好きな人もゾンビが好きな人も居る。そもそもこれだって明確に分かれているわけでもない。

まとめ

「自分にあったレビュアーを見つけよう」というのは簡単だけど、そのレビュアーが一貫してずっと同じ態度でレビューをしてくれるわけでもない。というか普段接する一般的な(雑誌やテレビ、新聞など)レビューって、幅広く一般向けに書かれた、誰が書いたものなのかすらよくわからないものだったりする。差分を適用するほど情報がないことがほとんどなので、その場合は上にいったことは考えてもしかたがないだろう。

自分の名前で仕事をしているプロはみんな自分なりのスタイルを見出して、一貫性をある程度は保っているように見えるから(僕が何度も読んだ評者10〜20人ぐらい少ないサンプルだけど)「自分とあったレビュアーを見つける」点では安心かもしれない。まあ基本的には好みや、評者のリアリティや、どこに感情移入しているのか、あるいはしていないのかをみて、適宜自分用に修正するという作業が必要になるだろう。

そういう当たり前のことが言いたい記事であった。