基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす by 溝口彰子

BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす

BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす

BLがどのような機能・効果をもって生まれ、受け入れられ、またどのような変化をたどって現在に至るのか(もちろん、全体の一部分を切り取ったにすぎないにせよ)を丁寧にたどった良書だ。BLというと男性読者はほとんどいないようだけど、読むとこれがめっぽう面白い。

単純に男同士の恋愛なだけでしょ? と思うかもしれないが関係性構築・シチュエーション・さまざまな職業ものとして(きちんと職業について・仕事をしている男が多い)・また性的規範をさまざまな方法で逸脱し、マイノリティ故の葛藤・社会的な枷を乗り越えていく・周囲の理解・反発を描くなどパターンは無数にあり新しい作品が出るたびに変化していることがよくわかる。

僕はBLがどうとかいうより、『ポーの一族』が面白かったな〜〜と思う延長線上でたまに話題になったものとか薦められたものを読むぐらいだから当然大半の読者層である女性とは読み方が大きく違うのだが、本書に書かれている内容には頷くところが多い。BLによってもたらされる快楽は読者の数だけあると断りながらも、本書では一貫してBLとは

女性の様々な願望が投影された男性キャラたちが、「奇跡の恋」に落ちる物語群であり、女性が、家父長制社会のなかで課せられた女性役割から解き放たれ、男性キャラクターに仮託することで自由自在にラブやセックスを楽しむことができるのがBLである、と。

とまとめてしまっているあたりは多少反論が上がるかなとも思う。ま、想像でしかないけど。

著者について

著者の溝口彰子さんはBLテーマに研究を続けている研究者の方で、本書が単著としては初めての著作になる。経歴も特徴的で、BL愛好家であるのはもちろんだが同時にレズビアンでもある。かつて「美少年マンガ」や「少年愛もの」に感情移入しながら過ごしたことがきっかけとなって「自分がレズビアンであることを受け入れ」ることができるようになったと語るように、人生上大きな影響を受けておりそれだけ熱意も高い。

研究書としては主観的な歪みでバランスが崩れるのではと心配するところではあるけれど、一読した感じ熱意は熱意のまま、事実は事実のまま歪みなく伝えられているように思った。何より読んでいて単純に面白いのがいい。

「攻」と「受」

作品をどのようにして読者が受容するのかというのは、別に0から1に切り替わって興奮しますみたいなデジタルな変化が起こっているのではないのだから分析するのが難しいものではある。溝口さんの分析はそのあたりかなり挑戦的に挑んでいる。

たとえば「攻(いれるほう)」☓「受(いれらるほう)」のどちらに感情移入するのか、女性が自身をそのまんま投入するなら当然「受」だろうと思うところだが、実際に女性読者からすれば「断然攻」という人もいる。あのひととここだけのおしゃべり―よしながふみ対談集 (白泉社文庫) by よしながふみ - 基本読書⇐この記事など参照。で、そういう本来自分からはかけ離れた存在であるはずの「攻」に感情移入する仕組みについての分析が面白い。

私がいいたいのは、彼女たちが挿入者(=「攻」)のみに感情移入すると語る時、それはすでに、現実においては永遠に挿入される側(=「受」)だという立場を前提としている、ということだ。「攻」が「受」を「女」にする行為に読者がアイデンティファイし、喜びを感じるという時、前提となっているのは、彼女たちは「受」をあらかじめ内面化した存在であるということである。「女」役がどんなものかを知っているからこそ、男でありながら「受」=「女」になるのがどういうことかを想像できるのであり、それゆえに、男を「女」にするという「攻」の喜びを理解するのだ。

これは「攻」に感情移入すると語る女性がどのようにしてそれを成し遂げているのかの一分析であり、当然読者は「受」にも「攻」にも、また同時にそれを俯瞰してみる「神」としての視点もすべてを複合的に持っているだろうとその後の結論につなげている。なるほどねえ、仮説的には納得できる。基本的にはなれないはずの「攻」という存在になれるのが良いのだとする声は多いが両方男性であるBLでは可能なのだ。

BLは進化しているのか?

本書では「男女ものでも女性カップルものでも描きたいからこそ採用された男性同士という枠組み」を軸に、90年代当時の物語定形を追っていくが、BLは「真空」に存在しているのではなく、たとえばリアルにゲイの人間もいれば、レイプ被害者もいるわけであってそれらを安易に物語化・ファンタジー化することは問題なのではないかとする論争が、実際にかつて存在した(今もたまにあるかな?)。

BLの中で描かれるかっこ良かったりスレンダーなホモチックなキャラクタは当然ながら物語内の存在なのであって、現実のゲイとは違うのだし、それを「ホモ・ファンタジー」だからなんだっていいんだと、していいのだろうかと。本書でいうところの「進化したBL作品」は、実はこのあたりの現実に存在するミソジニー(女嫌い)、ホモフォビア(同性愛嫌悪)、異性愛規範を意識して作品内に取り込んで、BL作品として昇華した作品群にあたる。

それは現実のゲイの性生活にリアルに密着した実録モノとして現れるのではない(そういうのもあるのだろうが)。たとえば同性愛嗜好を持つ兄に寄り添う異性愛者の妹が最初はその事実を知って驚き、しかし次第に共感を示しそういうものだと受け入れていく過程を描いた『コイ茶のお作法』のような作品を何パターンもとりあげBL作品に存在する様々な性的規範に対する付き合い方・描き方の模索を丹念におっていく。

「ゲイかノンケか」という単純な問いかけだけではなく、生まれた身体が男性・性的指向も男性で女装が好き、そんな自分は性自認が男でありながら男が好きな「ゲイ」なのか、はたまた性自認が女であって、トランスジェンダーな異性愛者なのかと悩むセクシュアル・マイノリティキャラクタ(『スメル ズライク グリーン スピリット SIDE A』)などBLも作品数が増え・多様性が増すごとに複雑化が起こっている。

そうはいっても、やっぱりキャラクタはほとんどは美形であるし、妙に世界にゲイが多かったり(当たり前だが)と「ファンタジー」でもある。でもその一部分には確かに、「100%ファンタジー」のBL作品とは違って現実的な規範を物語として取り入れている流れがあるのだ。

多少風通しはよくなったとはいえ、いまだに一般共通認識としての性的な規範は強く、女性にお茶汲みをさせるなり特定の役割を押し付けるなりといった「差別」は当たり前にまかり通っている。BL作品の中では一足早く女性の役割・男性の役割といった性的な規範は破壊され、今度は逆に「現実にこのような役割・規範の破壊が行われたらそれはどう軟着陸すべきか」という実験とでも言うような作品が実に丁寧に描かれており、BLには確かにBLでしか描きえないものがあるのだと。その見取り図を提供してくれる充実した一冊だ。