面白かった小説、つまらなかった小説、興奮した小説、たくさん読んで経験してきたつもりであるし、どれも違った体験をできるのが小説を読む醍醐味である。本書『ブラックライダー』はなんだったのかというと、「なにがなんだかわからねえが、すげえ」としか言い様がない小説だ。こうしたタイプの作品は珍しい部類。つまらないわけではもちろんない。が、手放しで面白かった! と絶賛するのともまた違う、それでも600ページを費やして語られる文明崩壊後の世界観にただただ圧倒される。
最近洋書で人気だと言われていたポスト・アポカリプス物(Schools out foever)を読んだばかりで、どうも流行っているみたいだ(ゾンビ物とあわせて)。だからというわけでもないだろうが、本作品はアメリカ及びメキシコを舞台にしている。台詞回しは一回英語で書いたものを日本語に翻訳したのか? と思うようなノリで、文化の描き方、人間の書き方まで含めてとても日本人が書いたものとは思えなかったりする。数十ページ読んで「え、あれ、これ翻訳物じゃないよな??」と作者名をもう一度確認してしまったぐらい。
世界は一度文明が崩壊した後の、北斗の拳ばりに退廃した世界だ。6・16と呼ばれる大災害のあとで(核戦争? 大規模な地殻変動?)、環境悪化が激しい。食料生産は特に絶望的な状況で文明は崩壊している。食糧不足から人肉を食べるのは当たり前であった。何しろ本書の一段落目はこんなふうに始まるのだ。
フィッシュ葬儀社の三男坊が人を殺してその肉を食べたこと自体は、まあ、目くじらを立てるほどのことでもない。ヘイレン法が施行されてからのこの三年というもの、国じゅうでその類のことは起こるべくして起こってきたわけだし、カンザスシティ・フリープレスによれば先だってもリトルロックでT・V・マントルという男が逮捕された。マントルは会員制の美食クラブをつくり、そこで本物の肉を出していたのだが、言い渡されたのはたった一年半の禁錮刑だった
ヘイレン法とは人の肉を食べちゃダメよ、という法律。元々人肉を食わなければやっていけないほどの飢餓だったのだが(人肉を食わなけりゃやっていけない状況になったら増加速度から考えても、もう終わりのような気もするが)秩序が回復してきて禁止されるようになったのだ。しかしいまだに人が死ぬと「食べないのはもったいない」というような、考えられないような価値観がまかりとおっている。
そんな崩壊後に現れたのは西部劇そのもののような、悪党がのさばり人死にが当たり前の、秩序が崩壊した世界だった。冒頭からして保安官が馬泥棒を追いかけるところから話が始まるのだ。最初のほうこそ「おいおい、人類崩壊後の世界の割に、そのまんま西部劇をなぞっているだけじゃないか」というようなノリで進んでいくのだが、遺伝子操作されたほとんど人間のような牛や、感染したが最後致死率100%の奇病の蔓延、知能のある「人と牛のあいの子」といった特殊な要素が物語に介入していく。
ただでさえ崩壊した世界がさらに悲惨な状況へと崩壊していくのがたまらない。普通、人類崩壊後の世界ってなんか希望を持たす形にもっていくものじゃないのか!?
Amazonの書評は星1つになっているが確かにこれは積極的に受け入れようという気がないとキツイかもしれない*1。お膳立てされたわかりやすい面白さといったものがあまりないのだ。わかりやすい敵がいて、わかりやすい主人公がいて、ピンチになったり切り抜けたりする。大きな戦争が起こって、どちらが勝つか! さあどっちだ! というような興奮。いろいろあったけれど、世界崩壊後の世界でも人間は強く生き残っていく。そんな話を求めているとこの話に蹴り飛ばされてしまうだろう。
誰が主役かもわからないまま、物語の落とし所もわからないまま、物語は多角的な視点で進んでいく。誰も自分の正義など確信してはいない。正義の側にいるはずの保安官は馬を奪ったアウトローを追い、アウトローは自身の目的と矜持にしたがって犯罪を犯し、あるいは復讐に邁進する。知能のある人と牛のあいの子は、自身の役割を自覚し革命的な行動に打って出る。殺し、殺され、復讐し、復讐される。ただ状況に翻弄されていくのみ。
しかしこの不親切さというのは、純粋に物語を前にすすめるプロット部分以外(そもそも何が本筋なのか、すらもよくわからないが)、枝葉の描写が多いからだろうし、また人間が大勢出てくるにも関わらず感情移入できそうなキャラクタ(=わかりやすい主役)がほとんどいないことが大きいのかな。でもそのおかげか一人一人の枝葉の込み入った描写はこの退廃した世界における「狂気」に落ちていく様を表現していてそこがまた素晴らしかったりする。
今もぱらぱらとめくって読み返してみてもとにかく一つ一つの描写、やりとりに読みいってしまう。一方お話、筋の部分では、少なくとも、楽しい気分にならない。ただただ人が死に、殺されて、復讐を誓って、また人が死んで、恋をして、それもまた死んで、復讐を誓って、といった暗黒の連鎖に落ちていくような物語なのだから、ひたすら陰鬱な気分になってくるのも仕方がない話だ。
陰鬱だなあ、暗い世界だなあ、そう思いながら読んでいって、ほとほと嫌になってくる。それでもそんな鬱々とした世界の中で交わされるやりとりが、とてつもなく魅力的に見えるのもまた確か。これぐらい陰鬱で、それでいて爽快な気分にさせてくれる小説もない。とことん陰鬱で、それ故にこそ表現される爽快さといった逆説的な素晴らしさが本書にはあるのだ。
「陰鬱になりきった故に表現される爽快さ」。この感覚は説明が難しいのだけど、現代の価値観から乖離した人たちの中で、淡々と人が死んで、復讐を決断し、因果応報としての死を受け入れていく、そうした「すべては、そういうものなのだ」という感覚の表現というものだろうか。たぶんそれは出てくる人物たちの「生ききった」という感覚なのだと思う。聖人のような人間はなど一人もいない。みな自分の行動に悩み、それでもなお決断して行動を起こしていく。
感染を防ぐために大量虐殺するヤツ、私利私欲の為に人を殺し物を盗み村を焼く極悪兄弟、凄腕保安官、のちに復讐鬼と化し、大量虐殺犯討伐軍のリーダー、みなよく人を殺す。一方で大量虐殺者はその身に葛藤を抱え、村を焼く極悪兄弟はその残忍さと比例するように母親へ優しく兄弟愛は厚い。残忍な世界、残忍な人間たち。それでもその一方にはまるでバランスをとるかのように愛情の描写がある。
その身に葛藤を抱えて、あえてその道を進んでいくことが丹念に描写される。陰鬱でありながらも爽快であるのは、みな自分にやってくるであろう陰鬱な結末を、総じて受け入れている、あるいは受け入れていくからだ。陰鬱に死んでいっても、そこにはやはり「それでもまあよく生きたよなあ」というある種の満足感がある。
一方で、のりきれないという人がいるのはわかってしまう。人間が多すぎてごちゃごちゃしてよくわからなくなっていくし、主人公らしき人間もいないのでどこに視点をあわせていいのかわからない。だがこれほど丹念に描かれた世界は、他にどこへいっても読めないだろう。世界に浸るように読めばこれほど面白いものもそうない。もし読まれる場合は、描写の一つ一つに楽しみながら読んでほしい。
- 作者: 東山彰良
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2013/09/20
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*1:星1つなんて評価があっていい作品じゃないとは思うけど、そんなことはひとの勝手なのでどうでもいい