基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

エウロペアナ: 二〇世紀史概説 (エクス・リブリス) by パトリクオウジェドニーク

僕が普段よく行く、平日の12;00〜14;00に来た人は500円でカットしてもらえるという10分カット真っ青の激安髪切り屋では切り終わった後必ず「髪すいときますか」と聞いてくる。すいとくってなんやねん、すいとくことによるメリットとデメリットを提示せえやと思いつつも「すいといてください」といってしゅっしゅとなんだか髪の長さを揃えるのではなく全体的に髪の分量を減らして(髪をすくってたぶんそういうことですよね??)くれるのだが、本書はそんな、髪をすくような感じで二十世紀をざっくばらんに振り返ろうという割とめちゃくちゃな一冊である。

20世紀ね〜僕は20世紀をそんなにたくさん生きたわけじゃないけどいろいろあったよね〜ナチスは狂ったように人を殺したし第一次世界大戦も第二次世界大戦も起こって人がばったばったと死んで、毒ガス兵器を開発したけどなかなかうまくいかなかったりもしたし。ソ連は崩壊しちゃったしベルリンもなんかあれだしね。イギリス人は戦車を発明して科学者はアイソトープや一般相対性理論を発見しセネガルの射撃兵は飛行機をはじめて観た時に家禽だと思い込んでいろんな歴史家がいろんな歴史観をぶちあげてその間にも死体は積み重なっていったものだ。恐怖の大王とか言って冗談半分に怖がってみたりしたし。

いろいろあったわけだ。で、本書は歴史書なわけ? といえば、僕は「そんなようなもんだ」と思って読んだけど、訳者あとがきを読むと歴史(History)を扱う書物であると同時に物語(Story)を扱う書物でもあるという。確かに次々と出てくる逸話、思想、事実、数字の数々はあまりにも説明不足で放り込まれていき、それがある程度は事実を元にしているのか、あるいはまったくのフィクションなのか分からない部分もある。戦場の逸話から精神分析、セックスに工業上の進歩と語られる事柄が多すぎてそんなこといちいち確認していられないし、すべてを把握している二十世紀博士でもしらねえよと思うような細かい部分を執拗に追いかけてくるから、判断不可能なのだ。

本書を表現するのに髪をすくといったのは何も二十世紀を全体的に扱っているからというだけではない。「二十世紀」それ自体を、時系列にとらわれず、事の大小にも引っかからずに処理し、歴史を編集し、並び替えていく。よく言えば編集それ自体が文学になるかのような、もう少しくだけて別の表現でいえば、なにもかも思いついた端から適当に言葉を並べたような、カオスに満ちあふれていることが、まるで髪をざっざっざっざとハサミですいていくような感じだなと思って、表現したのだ。

戦場で無残に人が死んでいったことの延々とした描写が続いたかと思えば突如ブラジャーを考案した話に繋がり、そうかと思えば国家のこと、宗教のことといったデカイ話から工場システム、近代化、共産主義と資本主義のようなシステム面へ話は飛び、さらにはそうした時代の動きの中で個々人がいかに行動し考えていたのかとミクロな部分へと視点が縦横無尽に切り替わっていく。我々は別に本を読む時に虫眼鏡を使って読むわけではない。しかしこうやってカメラ(記述)が大きいものから小さいもの、中くらいのものからまるで別方向へとガンガン切り替わっていくと、ただ延々と文字を読んでいるだけなのに遠近感が麻痺し感覚が揺さぶられていく。これは僕にとっては新鮮な感覚で、二十世紀という100年にわたる長い期間をテレポートするか、あるいは時系列を無視して泳いでもいるかのようにざっくりと時代を横断していくような感覚を味わった。

時系列順ではないというのが一つ新鮮な体験だったのだろう。本書は本文の上の方に「ヨーロッパは堕落している」とか「ドイツ兵がタダンスクで発狂する」とかいったちょっとした小題がついたままシームレスに進行していく、トピック羅列システムなのだが、この流れに何らかの法則性があるのか、ないのかよくわからない。歴史を終わりまで見通して世紀末にそなえる個々人のことを読んだかと思えばそのすぐあとの記述ではナチがアーリア人を堕落から守るため大量の人を安価にかつ容易に殺害できるツィクロンBとガス室を考案しているのだから、まるでタイムマシンにでものっているかのようだ。しかしそれでこそ歴史を横断する視点を手に入れられるのだろうともいえる。

かといって話の流れにまったく規則性がないわけではなく、過去の記述を受けてその内容をまるで別の方向へ発展させていくといったことが何度も行われていく。たとえば生化学者によるバービー人形が受け入れられた背景として子供にも性的欲求があるということを示しているというとんちんかんな説の説明からはじまって、1970年代には黒い肌や茶褐色の肌の人形の製造がはじまったことに触れ、バービー人形から次第に人権問題へと話題がスライドしていくように。時代も話題のジャンルも大きく異なっているが、象徴的な意味合いと多少のつながりが維持したまま話が展開していくので、こんな歴史の語り方があるのかと驚いたものだ。

そうだな、多少不本意ではあるけれど話題の自然な繋がりと転換の例を一つ載せておこうか。技法的に面白いし、ほとんど途切れずに複数のトピックを横断していくのは技法だけじゃなく文章能力が相当なければできないと思う、名文だ。

 セックスは二〇世紀のヨーロッパにおいてきわめて重要なものとなり、おそらく宗教以上に、また金銭に比肩するほど重要なものとなった。誰も彼もがいろいろな体位での性交を試みるようになった。コカインはいかなる使用も禁止されているにもかかわらず、長時間にわたって勃起を維持しようとして、自分の性器にコカインを塗りたくる男性もいた。第二次世界大戦後、主人公たちが性交するシーンが映画に登場するようになった。それ以前は、多くの人が神の存在を信じていたため、性交シーンは下劣なものと考えられていて、大抵の場合、ベッドや時計、空のカットが突然の暗転でほのめかされるにすぎなかった。女性はたえずオーガズムを求めるようになったため、男性はそれで神経質になって勃起不全症になり、催淫薬をいろいろと試したり、幼少期に自分の知らないトラウマがないか原因を求めて、精神科医を訪ねるようになった。一九〇〇年に精神分析を考案したのはあるウィーンの神経科医で、心的過程を検討するために、無意識というものを用いて主体を規定しようとした。

セックスの話を延々とゲスく続けたかとおもいきやいきなり映画の話が挿入され、まだしばらく性交の話が続くのかと思えば突然精神分析の話、精神科医の話に移り変わっていくこのドライブ感よ。

本書は2001年に発刊されたらしく、出されるべき時に出された一冊であるという印象が強い。日本語版の発刊は本年8月である。かといって今読んでその内容が色褪せるものではない。二十世紀は二十世紀なのだし、それは過ぎ去ったままなかったことにはならないし、変化もしないわけだから(これは正確には正しくないが。歴史とは常に現代の人々によって想起され調査されるごとに新たに生成されるものであって、絶対確固たる歴史というものは基本的に存在しないだろう。)。

エウロペアナ: 二〇世紀史概説 (エクス・リブリス)

エウロペアナ: 二〇世紀史概説 (エクス・リブリス)