1967年にアメリカのハーバード大学で行われた、ボルヘスによる詩についての講義をまとめたのが本書『詩という仕事について』だ。全六回の講義の中で、詩とは何なのか、隠喩について、物語りについて、言葉の調べと翻訳について、思考と詩について、そして詩人の信条として、詩人の一人でもあるボルヘス自身の作品論を展開していく。詩という定義することが困難な表現媒体にたいして、ボルヘスがとった距離感は絶妙という他ない。
詩について書かれたものを読んだことが記憶にある限りないので、類書として、あるいは理論としてどれだけの正当性があるかどうかは僕に判断がつかない。判断がつかないが、彼の幅広い知識の中から選びぬかれた詩を次々と引用し、そこにいくつかのパターンを見出していくやり方が、とても好ましく感じられた。見出さされたパターン自体は、おそらく特段真新しいことを言っているわけではないと思う。むしろ極々常識的なことを言っている。
たとえば隠喩の項目では「数千の隠喩があるけれど、それらは少数の単純なパターンに帰着させられること」「また明確なパターンに帰着させられない隠喩が存在すること」というシンプルなふたつの結論が導かれる。言葉にしてしまえば非常に単純な事実だが、この講義録の素晴らしいところはそれが常に、あらゆる詩の具体例を伴って、それを紹介するボルヘスの言葉自体がまるで詩のように機能している点である。
しかし、われわれは心得ている。そして詩人たちは感じていると思われます。あらゆる単語は自立していること、また、あらゆる単語は唯一無二のものであること、をです。ある作家がほとんど知られていない単語を使っているとき、私はこうした印象を抱かされるのです。例えば、われわれはseduous「精勤の」という単語を、やや古めかしい、しかし興味をそそるものと考えます。しかし、スティーヴンソン──またまたお出ましを願いますが──が自分はハズリットに対して”played the sedulous ape”「まめまめしい猿の役を演じた」と書くと、この単語もにわかに生気を帯びるわけです。したがって、言葉はもともと魔術的なものであり、詩によってその魔術に引き戻されるのだという、この考えかた──それは、もちろん私のものではありません。他の作家たちにも見いだされると確信しています──は真実であると思います。
理論的な教え方というには、「単語は自立」生気」や「魔術的な」といった単語・文では正確な情報の伝達はまったく不可能であろう。が、あえてそうしたイメージを伴う単語を使って詩を表現していくからこそ、伝わることがある。詩が表現していることを、理詰めで解説することは不可能である。詩の解説などというものは、滑ったギャグの解説のようなもので、解説されることで興ざめしてしまうことがある。
それは詩が、考えるよりも、感じ取るものだからだろう。優れた詩は、優れた絵と同様、一瞬触れただけでその素晴らしさが伝わってくる。逆にいえば一瞬触れた時点で「これはすごいな」と伝わってくるものがなかったとしたら、わからないのだといってもいいだろう。一瞬の「すごさ」に触れた時の「なんとなくの感覚」をボルヘスは見事に、指し示してみせる。凄さを表現すること、解説することは不可能でも、それがどこにあるのかを指し示すことは出来るのだとこのボルヘスの講義録によって実感することになった。
ボルヘスの授業がとても好ましい距離感を保っていると思うのは、彼自身もまた詩に陶酔している人間であり、それを意識しているからこそ、詩を何か定義可能なもの、わかるものとして捉えず、常に手の届かない、ただ指し示すことだけができることだとする感覚を絶えず持っているからだろう。そして引用される詩、詩人に対しては、常に敬意が含まれている。それは「敬意を表したいと思います」といった文章が常に引用されるときに書かれている、というわけではもちろんない。彼は偉大な詩人から常に何かを引き出そうとしているように見える。
彼が”When I consider how my light is spent/Ere half my days , in this dark world”「この暗い世界で、私が生の半ばに達する前に/いかに我が光が消えたかを考えるとき」と書いた際には、彼の言葉遣いは凝ったものであるかもしれませんが、しかし生き生きととしています。その意味で私は、ゴンゴラ、ジョン・ダン、ウィリアム・バトラー・イェーツ、ジェイムズ・ジョイスといった作家たちは正しいと思います。彼らの用いる単語、彼らの物する詩連は無理なところがあります。皆さんも奇妙だと思われる点があります。しかし、それらの言葉遣いの背後にあるものは真実であると、われわれは感じさせられるのです。これだけでもわれわれの敬意を受けるのに十分ではないでしょうか。
心底楽しがっている人間にしか出せない笑顔というものがあるように、心底好きでやっている人間にしか出せない文意、といったものがあるわけで、ボルヘスの敬意とはそうした類のものである。それはもうただのファン活動のそれであるといってもいい。ボルヘスが詩を引用し「これすげえ、マジ魔術的だわ」といって興奮しながら紹介してくるのをこちらも読んで「うわ! たしかにこれはすげえ! うん、君の言うとおり凄いよボルヘス君!」となんだか時を超えてしきりと共感してしまうのだ。
そして対象に陶酔しながらも常に客観的な位置をとりながら教師としての立ち位置をとれる者だけが、「この先にはこんなに楽しそうなものがあるのだよ」と方角をさししめすことができるのだろう。生徒はそれを受ければ、教師がいなくなったとしても指し示された方角を自分で目指すことが出来る。偉大な教師とは、自身がいなくなったあとも生徒を方向付けられるもの、つまりはロマンを語れる人のことだと僕は思う。
そして最終章では、表現者としてついにボルヘスは自分自身を取り上げる。ここで語られる彼の創作への考えは、先に書いたようにそれ自体がとても詩的な表現であり、果てしない可能性を持つ言葉の並びへ誠実であった。線を引きながら読んでいたのだがほぼ真っ黒になってしまうような有り様だ。たとえば印象的なところを一部引くと、言葉とは何なのでしょうか? という問いにボルヘスは「言葉は、共有する記憶を表す記号なのです。」と応える。
言葉とはある事象への暗示なのであり、言葉が提示されることによって、それを受ける側は自分の記憶からそれに関連するものを呼び出して、経験することになる。ボルヘスの考えでは、そうした「キーになること」が言葉の能力であるとする。『つまり、読み手に想像させるよう務めることしかできない』、短編ばかり書いてきたボルヘスの表現の根底にあったのは、より詩的な、より多くの記憶を呼び覚ますヒントの出し方によって、長編に見いだせるような複雑さを、より快適な形で出すのだという言葉の機能への立ち位置の違いだったのだろう。
いや、ほんとに素晴らしいので(230ページ足らずと短いのも素晴らしい)、いちど読んでみることをおすすめします。原文の詩と、日本語訳が並置されているので、読めなかったとしても原文で一度読んでみるのがいいかも。言語によって言葉の響き、リズム、それから受ける印象がこうも一変するのかと驚くはずです。
- 作者: J.L.ボルヘス,鼓直
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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