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偉大なる失敗:天才科学者たちはどう間違えたか by マリオ・リヴィオ

当然ながら科学者だろうがなんだろうが間違えを犯すわけで、ただ単に失敗を取り上げるだけだと本として面白くはならないだろうなと読む前は思っていた。しかし「大発見への橋渡し役を果した」失敗を「偉大なる失敗」と呼び、五人をとりあげていてなかなか良いまとまり方をしている。何よりいかに偉大で名声を得た科学者であったとしても、むしろその事によって自分の説への過剰な信頼を寄せてしまい間違いを認められず、軌道修正することかなわず「失敗し続ける」ハメになった例など、失敗について我が身を振り返ることも多い。

たとえば本書で取り上げられている科学者のうちの一人にケルヴィンがいる。彼はなるべく科学的な指標を使って計算を行い、もっともらしい地球の年齢を導き出したが、のちの研究によればそれは桁のレベルから間違っている値であった。ケルヴィンは自身の科学的な計算について、いくつかの仮定をおいており(まだわかってない部分だったので)、それ自体はどうしようもないことだが、その一つに「地球の熱伝導率はどこであろうとも一定だ」としていた。これがまず間違いの元だった。たしかに深さ1.6キロメートルであれ1600キロであれ一定であるならば、地球内部の温度を求めて冷却時間を求められる。そうすれば大雑把ではあるが地球の年齢がわかるはずだ。

しかしそこは当然仮定だから「違うんやないの? 1.6キロメートルと1600キロメートルでは熱伝導率は変わってくるんやないんけ?」といわれてしまうと推定は根底からくつがえる。ケルヴィンはこれについては多少聞く耳を立てていたが、この後のいくつか続く致命的な反論に結局彼は有効な反論が出来ず、かといって自説を捨てるわけでもなくなんとか生き残るように仮説を立て実験を繰り返すようになった。このような「自説の提唱」「実体と異なるという反論」「反論の否定、自説の補強材料を求め意味不明な実験を繰り返すように──」という流れは本書の中でもケルヴィン以外に何度も繰り返し起こっている流れだ。

特にケルヴィンは、たしかに地球の年齢の計算は誤りだったが、地質年代学をあいまいな推測でしか行われていなかった時から物理法則に基づくれっきとした科学へと変えた偉大なる男である。そんなケルヴィンであってさえも自説へ明白な誤り、もしくは曖昧な部分への懐疑を突きつけられて認められないものなのだ。まあ、もちろんこの当時の時代性もある。明白に結果が出てしまった現代とは違う。「どっちに転ぶかわからない」状況であり、さらには「自説を証明する証拠がまだ出てくるかもしれない」と可能性が残っているうちはなかなかその可能性を捨てきれないものなのだろう。この当時は、仮説への疑義や仮説への反論もまた仮説の段階であり、決定打には弱く、それがついに決定打といえるだけの裏付けを伴った時にはケルヴィンはもうその主張を何十年も貫き通していた。

この後に語られる、ビッグバンを否定し死ぬまで「定常宇宙論」を提唱し続けたホイルにも明確に共通することだが、自分の行ってきたこと、自分の大切な仮説を否定され受け入れるのは時によってはとてもむずかしいことのようだ。もちろん情報の少ない時点で誤りをおかすことはあるが、ケルヴィンやホイルに共通しているのは明白に自身の理論の誤りを指摘されてもそれを受け入れられなかったこと。もちろん本書はそうした「失敗を否認して認められなかった科学者」ばかりを集めたものではなく、アインシュタインのように自身の(一時的な間違い)を認めておきながら、のちにそれが生き返ってくるような失敗も描いている。

でもやっぱり僕は明確な間違いを指摘されてもそれを受け入れがたい科学者達が強く印象に残る。自分が犯しがちな事象であることもあるし、関連した事象として身の回りをみていて「自分の成功や時間を費やしたことを捨てられない事が不幸に繋がっている」例をよくみることもある。たとえばあることをずっとやっていて、それで社会的な評価を受けていたとする。それは凄い、と思うところだが、当人はとっくに飽きていて情熱もないしあまり新しいこともやらないのだが、とにかく評価を受けているしずっとやってきたのだからと続けている。

もちろんこれはただの一例だが、たとえ一回評価を受けた・もしくは時間をたくさん費やしてきたとしてもそれをすべてうりゃ! とやめてしまえば、全く別の事に時間を使って、違うことに興味を持ってはじめられるはずなのだ。社会的な評価を得ているか、得ていないかにかかわらず、「自分はこれが好きなのだ」と自分で自分のことを決めつけて、その枠で自ら狭めてしまっていることがあるように思う。僕もブログを長年書いてきたが、これをうりゃ! とやめてしまえばまったく別のことがたくさん出来るようになるだろう。「ずっと書いてきたんだし……」という気持ちが邪魔をするが、こういう気持ちを「捨て去ることができるか」とこの本を読んであらためて考えていた。

それはなかなか難しいことだろうと思う。本書は科学者がおかした失敗がいかにして科学史の成功へとつながっていったかを書いていく一冊ではあるが、同時にいかにして人間が失敗をおかし、それを受け入れる・受け入れられないかの過程でもある。振り返ってみれば「なぜ間違えたのか」というのは自明なように思えるものだが、もがいている時にはそれがなかなか認識できないものだ。我が身によく刺さる。

偉大なる失敗:天才科学者たちはどう間違えたか

偉大なる失敗:天才科学者たちはどう間違えたか