基本読書

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コンテンツの秘密―ぼくがジブリで考えたこと by 川上量生

川上量生さん。着メロのサービスとニコニコ動画をつくってみせた。ニコニコ動画は最初は違法アニメ動画ばかりの状況から健全化させる、きちんとしたアップロード環境を整えると宣言し殆ど信じている人もいなかったのにいつのまにやらニコニコ動画は公式配信されるアニメがひしめき合っている有様である。ヴィジョンを持って仕組みをつくっていく能力がある。胡散臭いが現代の異能力者のようだ。ただそういう現実世界に利益を生み出す仕組み、人々が使うであろうサービスを提供し整えることと、ものを作る分野は大きく隔たっている。別に企業の創出の専門家というわけでもないだろうが、畑違いのことについてもきちんとしたことが語れるのだろうか。

結論からいえばあくまでも原理的な部分から、人間が物語を受容しそこに何らかの価値判断をするのかについて優れた観察結果になっているように思う。株式会社カラーの取締役でもあるから庵野秀明さんの話も度々出てくるし、自身で「卒論」と語るようにジブリのプロデューサー鈴木敏夫さんにひっついて見習いとして数年修行したジブリの人々の話も多い。そうした「あの人達がこんなこと言っていた」という話だけでも十分に面白い。しかしそこからあくまでも「こういうことなのではないか」といくつかのコンテンツに対する考えを述べてみせる。

第一章ではコンテンツとは何かを定義し、第二章ではどのようなコンテンツが人の心をつかむのか、クリエイターはどうやってそこに照準をあわせるのかをみていく。第三章で他のクリエイターと差別化する要因はどこか、を論じて最後に天才クリエイターとはなんぞやを明らかにしてみせる。どの章も面白いけれども(いくつか疑問点もあるが)主観的と客観的な情報が人間が「現実から情報を受け取る」時には存在していて、それがコンテンツを受容する時に大きな差異や問題となって浮き上がってくるというような話が中心軸かな。「そうそう、そうだよな」と考えていたが言葉にならないような部分をうまいこと言語化してもらった。

脳の中にある情報を記号表現によって引きずり出す。

たとえばジブリのアニメは情報量が多いから良いという。しかし情報量でいえば実写の方が多いだろう。それならばなぜ実写よりもアニメを好む層が出てくるのか。確かにアニメの方がより記号的で、情報量は少ないかもしれない。だが実際人間は世界を「生のまま」受け取っているわけではなくて、ある程度取捨選択して脳内に転換し像を結んでいる。記号の力はそうした脳内が現実を変換していく過程をハックするものなのだ。実はこの考えは本を読む前からあきまんさんのツイートで「これはすごい!!」と感動した考えだったりする。togetter.com

よく絵に情報を込めるとか云う表現がありますが、実際情報をたくさんもっているのは人間の脳みそなんです。絵の中に込められたものは人間の脳の情報を引き出すための鍵です。

というのあきまんさんの1ツイートは卓見だろう。この本の中ではもちろんあきまんさんの話は出てこないが、だいたい同じことを言っているように思う。簡単にまとめてしまうとこういうことだ。我々の脳は現実をそのままに受け取っているわけではない。たとえば「紫外線」は見えないから、視覚情報としてはカットしている。二つの目を使って、錯覚のようにして像を脳内に結んでいる。主観情報と現実として存在しているありのままの客観情報は異なっている。アニメは主観情報にフォーカスできるメディア、表現方法である。だからこそ風立ちぬの飛行機は実際のものよりずっと大きく書かれていても、人はそこに違和感を覚えずに受け入れられて、強く印象に残る。

 つまり、宮崎作品が世界で認められているのは、正確に人間の脳と視覚構造が認識しやすい形で描いているから、つまり、描いているものが脳に気持ちいいから。これが鈴木さんの説明です。 
 この鈴木さんの説を、別の場所で、庵野監督に対して話してみました。そうすると、庵野監督の感想がまたおもしろかったのです。「じゃあ、なぜ宮さんは脳に気持ちいい形を正確に描けるのか? 宮さんはおそらく目が見たとおりをそのまま描いているだけだと思います。つまり脳が認識して、受け取った情報のまま、紙に写しているので、それが結果的に脳が理解しやすい形になるというのが宮崎駿の秘密だと思います」

この本で繰り返し述べられていくことの中で最重要なのがこの点だろう。我々の脳の中にある情報、現実を変換する過程は現実そのものとは「別」だ、ということが。だから優れたクリエイターとはこの脳の中にある情報に的確にアクセスできる人間である、ということになる。文中では「世界の特徴」を見つけ出して再現する人、という表現をされているが、僕はあきまんさんの言い方の方が正確なように思うからそちらに一応寄せる。人間は単なる言葉にしろ絵にしろ、記号表現によって脳の中に存在している豊富な情報、あるいは反応を引き出すのだと。

コンテンツのクリエイターとは、脳のなかにある「世界の特徴」を見つけ出して再現する人なのです。でも、脳のなかからそれらを見つけ出すのは、簡単なことではありません。

表現にいくクリエイター

もう一つ面白いなと思った話が、クリエイターはストーリーではなく、表現に対して関心を持つという言葉。表現とは何かという話をするとまた面倒くさいことになるが、まあここでは「ストーリー以外」とざっくりした感じ。アニメだったらたとえば動きであるとか、どのような背景なのかといった部分。川上さんはこれに対してはストーリーはパターン化しやすく、パターンの数が少ないから、新しいものを目指すクリエイターはパターン化しにくい新しい表現を目指すのだというロジック。新城カズマさんの物語工学論とか、とにかく小説作法系の本ではわりと「物語のパターンは少ない」というのはもはや常識的になっていることではあるので、これ事態は特に驚くような話ではない。

僕がその話を読んでいて思ったのは、クリエイターだけでなく受け手の側も延々と受け手を続けていくと表現に目が向くようになるよなあということだった。まあ僕のことなんだけど、とにかくけっこうたくさん読む。けっこうたくさん読むのは、それが楽しいからではある。しかし世の中には一見したところ駄作のような作品もある。そういう時にウンザリしていたら、たくさんは読めないんだよね。だからたくさん読むためには「速読が〜」とかそういうレベルの問題じゃなくて、「何を読んでも面白がれる能力」が必要なのだ、実は。

そして何を読んでも(観ても)面白がれる為にストーリーだけに注目していたら、あっという間にネタが尽きてしまうのだな。ストーリーが破綻しているからといってつまんないと投げ捨ててしまうと、それはもう受容できない。同時にストーリーの出来が良い! と喜んでいられるのも最初のうちで、次第にパターンに回収されてしまう。でも表現に注目すれば、ストーリーがつまらなくても楽しむべき箇所はいくらでもある。川上さんはクリエイターに限定していっているけど、読者側にも同じことは起こりえるという話だった。

もちろんその結果、目線が「普段読まない人」から離れていくことになる。だから紹介者は「読まない視点」も同時に持っていなければいけないわけで、僕は作品の評価を考えて人に話すときは「自分がそれをどう楽しんだか」という主観的な評価と「他者がそれをどう評価するか」という客観評価はある程度分けて考えている。そこを混同して主観評価でこんなに素晴らしいのになぜあいつらは認めないんだと腹を立てるのは(この主観評価にはたとえば自分の人生経験を通した固有の感情移入なども含まれる)あまり良い結果をうまないなと思うことも多い。

話がそれたな。IT系ビジネスの専門家だけあって、まあ物事を次々と定義し、応用可能な形に整えていってくれる。それは最初に書いたように、最初はコンテンツからはじまって、人間が物語を需要するのはなぜか、そして最終的には「もの作りにおける天才とはなにか」の定義にまで辿り着いてみせる。もちろん異論はいろいろと出る部分はある。たとえば、まあ当たり前だが、基本ジブリに対して肯定的な見方ばかりだ。ただざっくりとしたコンテンツ語り、天才語り、仮説の提示として僕は大変おもしろく読んだ。

コンテンツの秘密―ぼくがジブリで考えたこと (NHK出版新書 458)

コンテンツの秘密―ぼくがジブリで考えたこと (NHK出版新書 458)