基本読書

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レナードの朝 〔新版〕 by オリヴァー・サックス

特にノンフィクションジャンルにおいては名著と呼ばれるものは何度もの改訂、版を重ねることもあって都度都度序文や時代に合わせた注の追加が行われることになる。積み重ねられた序文の一つ一つはその本が名著であることの証となるだろう。本書もそうした名著の列に並ぶ一冊だ。初版時と、そして1990年版の序文を納めて大量に注と現代版へのアップデートが加えられ、用語解説に付録として状況解説的な文章までついて650ページにもなる分厚い一冊となる。

著者であるオリヴァー・サックスが脳神経科医として長年診療を行うかたわら、1973年に書かれ、40年以上の時を経て今尚本書はその「価値」を保っている。「価値」の話に移る前に、一応これがどのような本なのかについて簡単に紹介しておこう。本書はおもに20世紀の初頭から大流行した脳炎、嗜眠性脳炎とも呼ばれる半昏睡、パーキンソン病、うつ病、幻覚、強迫観念、チック、統合失調症のようなものまでさまざまな病気を併発させた患者を焦点に当てた観察記録のようなものだ。この病気が特異なのは、同じ症状を示す患者が二人としておらず、薬の投与に対する反応についても再現性がみられなかったり、みられたりするそのランダム性にある。

治療方法がまったくなかったわけではない。パーキンソン症候群の患者の脳では神経伝達物質であるドーパミンが欠乏していることは当時からわかっていた。その為、L-DOPA(ドーパミンの先駆物質)を大量投入したらどうよという試みをやった人間がおり、結果的にこれまで身体を動かすことがまったくできなかったような患者が、突然身体を動かし物を正常に考えられるようになるなどの劇的な改善が起こったのだ。本書はこのL-DOPAを患者に投与する以前と、以後でどのような反応が返ってきたのかは必ず患者の記録に混ぜ込んでいる。

面白いのは──といってしまうのは良くないのだが、この薬に対する反応もまた、再現性のあるものではないことにある。もちろん一様に皆、一時的に症状がよくなることは確かだ。しかし除々に反転現象とでも言える結果が出ることもあり、投与をやめてもさらに悪くなって死に至ることもある。安定的に改善状態を継続させる人間もおり、一人の人間でも最初はまったく受け付けなかった、副作用がひどすぎたのに数年経った後で薬を投与すると劇的な改善をもたらすこともある。科学とは再現性に重きをおく手法だが、だからこそこれでは困ってしまう。

本書が今をもってなおその価値を保っているのは、こうした患者一人一人の症例をただ実験のように語るのではなく「一人の人生」として描こうとしたところにあるのだと思う。オリヴァー・サックスは症例を単純化させず、そもそも「その患者は何年に生まれ、どのような人生を送ってきてその病気に辿り着いたのか」までもを克明に記録してみせる。それは生活や一個の人間そのものに絡みついた物を「まるごと捉える」ことをしなければ病気の理解などできないのだとでもいうようだ。約20人の症例が紹介されていくが、生から死までをおったその記録はまるでその人の人生を追体験していくかのような濃密さがある。

何しろ厄介な病気だ。ほとんどの場合身体は思うように動かず、意思の疎通が片腕の指数本しか動かないケースも多くある。そうした人々の中にも意識がなく何十年も昏睡状態にあった後、短期間の覚醒状態でその時間の経過をまったく理解できなかった──なんていうケースもある。それでも意識があるのに身体が動かない人達、意識がクリアにならない人達も大勢いて、L-DOPAを与えられて「身体を自由に動かせるようになった」ことへの興奮と感動は本書の原題でもある『Awakeings』に繋がっている。目覚めそのもの、覚醒。

何十年も身体が動かなかったのに突然自由に動き出せたら、それこそ生まれ直したかのような感動を覚えるものだろう。大抵の場合強い抑うつ状態や絶望も携えているわけだから、そうした要素も一瞬で(躁状態へ)反転する症例が次々と語られていく。問題はそれが殆どの場合は、どこかでマイナスに転じることだ。強い性衝動を伴って、投与前は極度に理性的な側面を見せていた人間であっても動きが抑えられなくなり投与を止められるといったこともある。人間の行動が薬一つで如何様にも変質しえるというのは悲哀を感じさせる。投与すれば動けるようになるが自制が効かなくなり、投与しなければ動くことの出来ない世界へ逆戻り。

目の見えなかった人間が突如世界を見ることが出来るようになったかのように解放に感動する。しかしそれがいつまでも続くわけではないという絶望が患者を蝕んでいく。普通に生きていれば絶対に味わうことがないであろう「絶望」と、そしてそこから一時的にせよ完全解放される「希望」、このコントラストは人間がもてるあらんかぎりの幸福と不幸のシーソーを描いているようにも見える。

僕が本書について強く感じ入るのはこれが「死」までを明確に描き切っている部分だ。人間の人生というのは良い部分もあれば、悪い部分もある。そうそう変わることはないとはいえ、イケイケドンドンだった人間が晩年は気むずかしくなって──やその逆など、様々なパターンをみていくと、やっぱり「死ぬ」ことによって人間は人生という作品を完結させるんだろうと思う。さまざまなパターンの症状が出る病気だから、その死に方もやはり一様ではない。納得して死んでいくもの、まるでこれまでの鬱憤をはらすかのように怒り散らして死んでいくもの、最後の数日間だけ突如症状が軽くなり頭脳は明晰さを取り戻し死んでいくもの──。中でも印象的には症例2、マグダ・Bのものだ。

 一九七一年の七月、マグダは健康状態も全般に良く、それまで「虫の知らせ」を受けたこともなかったが、ある日突然、自分は死ぬと感じた。それがあまりにもはっきりした前兆だったので、彼女は娘たちに電話をかけた。「今日会いに来てちょうだい。明日はないんだから……。そうじゃなくて、気分はとてもいいのよ……。悪いことはなにもないの。でも、今夜眠ったら死ぬことがわかっているのよ」
 彼女の口調は落ち着いていて事務的であり、興奮したところは微塵もなかった。その確信の強さに私たちの方が心配になり、血球数を測定したり、心電図を検査したりしたが、すべてまったく正常だった。その日の夕方、マグダは病棟を回って、笑うことを許さないような威厳をもって皆と握手し、「さようなら」と言った。
 マグダはベッドに入り、その夜のうちに亡くなった。

これなんかはあんまり症状とは関係がないような気もする。別に病気を発症した人が全員自分の死期を正確に把握するわけでもないんだから。でもこういうエピソードはなんていうのかな。単に症例という枠をこえて、人間そのものを圧倒的に立ち上がらせる。死へと臨む方法は人それぞれだが、誰しもその終への向かい方にその人自身が否が応でも立ち上がってきてしまうものだ。一方でオリヴァー・サックスの本に出てくる症例、患者は彼自身が「好きだったから取り上げた」という人がいるようにかなり彼の主観に沿ったものだ。それでも、それは一人の人間を人間として扱いながら科学的な対象として総合的に捉えるために必要な手法なのだろうと本書を最後まで読むと自然に考えるようになっている。

 あるとき、私は世の中で最も興味深いことは何かとルリアに尋ねたことがある。彼はこう答えた。「一語では言えませんね。二語使わなくては。それは『物語的な科学』です。それを発見あるいは再発見することは、私の生涯の願いなんですよ」私自身の答えもまったく同じものとなるだろう。ここ十五年間脳炎後遺症の患者たちとともに働いてきて、私が感じる奇妙な喜びは、私の中で科学的な洞察と「物語的」な洞察が融合し、私の精神と心を同じように動かせることになったことである。そして、それ以外のあらゆることは、この二つを捨て去ることだと知ったのである。

オリヴァー・サックスはその後も、患者の人生と症状を渾然一体として分けることなく語るスタイルを確立し、広い分野に発展させていくが、その精神の本質は初期作である本書で存分に発揮されている。

レナードの朝 〔新版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

レナードの朝 〔新版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)