新しい衰退の手触り。未来世界を、人体と価値観の変容を、世界が衰退していく様を派手派手しく演出するのではなく、ただそれは当たり前に起こる日常的な出来事の一つであり、特段不思議なことでもなんでもないといった独特な距離感を保ってこの世界は描かれていく。
我もまたアルカディアにあり (ハヤカワ文庫 JA エ 3-1)
- 作者: 江波光則,loundraw
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2015/06/24
- メディア: 文庫
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読ませる作家ではあるが、その舞台は主に学園であり、SFを書けるものなんだろうか? というのはちと不安だった。これも勝手な感覚なので誰かに納得してもらおうとは思わないが、人には「SFの眼」がある場合とない場合がある。SFの眼がない場合はいくらSF的なガジェットや世界観を用意しようがSFにはならないし、逆にそれがある場合はたとえ歴史物であろうがSF作品のように読める。江波さんは──いくつかの作品を読んだ限りでは、ボーダーなんじゃないかな? と思っていたが、本書を読んでみればこれが予想外にハマっている。江波イズムとでもいうような、悲惨な世界や簡単に壊れていく人間精神から一定の距離をとった視点の置き方が、SFとなったことで「世界」そのものへの距離感となって現れ、作品のフィールドをSFへと移しながらも明確にそのスタイルは継承され、いうまでもなくきちんとSFとして展開している。
世界観とかあらすじとか
物語の中心となるのは誰か特定の主人公というよりかは、書名にも一部入っている「アルカディアマンション」と呼ばれる誰もが働かずともだらだらと暮らすことのできる理想郷的マンションだ。「我々は世界の終末に備えています」と唱える謎の団体によって運用されているアルカディアマンションでは労働や義務といった一切の制約が排除されている。ただ入居する前提として、国家からの保障を受ける生活保護受給者になることを求められるが、それ以外はただ生活を営むだけでいい。物語の冒頭は、このアルカディアマンションに入居しようとする御園と名乗る「兄妹」の場面からはじまる。ただし「夫婦という事でお願いします」といっていきなり倫理観をぶっちぎっていく。
この二人はいったいどういう経緯でアルカディアマンションに入居することになったのか。その気になれば何もせずにただ寝ているだけで一生を終えられるそのマンションで、彼らはいったい何をするのか──創造か、停滞か──というのは物語の主軸の一つだ。同時に、この二人と同じ一族とみられる人々が、この世界でいかにして生きるのかも描かれていくことになる。それは時にアルカディアマンション草創期の話であり、時にはその成熟期である。他者の羨望を一身に受ける天才作家もいれば、凡人も犯罪者も、ホワイトカラーもブルーカラーもいる。
アル・ジャンナの一族はきっと盗人で強盗で殺し屋で、政治家で官僚でビジネスマンでスポーツマンであったとしてもブルーカラーでもホワイトカラーであっても一人が好きで、そして誰もが青くて黒い目玉を持って生きていくに違いなかった。
人間の仕事が人工知能なり、効率化によって取り除かれてしまったら人間はその時何をするのかはSFではたびたびテーマとして取り上げられることでもある。ただその殆どは「恋愛」だったり、「創造」あるいは「芸術」だったりに収斂することが多いように思う。*1本書はそこについては新規性はない。最初に独立した話として現れる「クロージング・タイム」は、進化した文明と何の不自由なく閉じこもって暮らせるマンションの中でそれでも創作を諦めきれない男の話だし、他の短編についても多かれ少なかれこの一族は創作に携わったり、あるいは恋愛にうつつを抜かしていくことになる。
凡人と天才、そしてクリエイターの物語
そんな中読んでいて面白いなと思ったのは、作品で凡人と才能ある人間の対比が繰り返し立ち現れることだ。それも、たしかに世界観を考えれば当然のようにも思う。何もしなくてもしなないのだから、芸術に邁進しようが何をしようが誰も止めはしない。だが、これはどんなことにもいえるかもしれないが芸術、創作、あるいは何かにのめり込むことには才能の差が現れてくる。圧倒的な才能を目の前にして、凡人は生きる為にする必要もない創作活動なんかする必要があるんだろうか? という問いかけに必ず直面する。先ほど話題に出した「クロージング・タイム」はまさにそんな圧倒的な才能を持つ作家・御園珊瑚と対比して、平凡な才能しか持たない男の物語だ。
私が結局、作家としては凡庸だったように。
しかし今この世界で、殊更に突出する理由も必要も特にない。
平凡にボサっと生きて好きなように好きなことを愉しめばいい。野球選手を目指した者は草野球で活躍できるだろう。ギタリストを志した者は宴会で喜ばれるだろう。その程度で誰もがみんな満足する。
私は満足しなかった。
私が誇れる、逸脱した唯一の部分はそこだけだ。
個人的に江波作品で好きなのは、この「私は満足しなかった。」の転調だ。冷静な現実認識と、その上で現実にうまく適応できない、当たり前の「事実認識」。それは極端に煽り立てるように描かれるのではなく、劇的に演出されるのでもなく、ただ、淡々と紡がれていく。シンプルだからこその凄味が宿る──というと褒めすぎなような気がするけれども、でも好きなんだよね。「クロージング・タイム」は短編としても天才・御園珊瑚と相対し、凡人としての生き方をこの世界で確立させていき、シンプルながらも凡庸な才能しか持たないクリエイターの在り方を描いていてシンプルながらもぐっとくる。
この暇で暇で仕方がない世界でバイクを走らせることに熱狂し、他のことなどまったく目にはいらない「からこそ」、惚れてしまった少女を描く「ラヴィン・ユー」は凡人と才能ある(この世界では何かに熱中することができるというのは、それだけで才能である)人間の在り方として、「クロージング・タイム」とはまた違う形で展開する。こんな世界でバイクに熱中し自分のことなんて見向きもしないからこそ好きなのだけれども、同時にそれは見てもらえないというジレンマに繋がる「少女漫画かな?」という展開をこの歪な福祉社会で行なう違和感が良い。
世界との距離のとり方
ちょっと違う傾向にも触れておくと、第二話「ペインキラー」はアルカディアマンション草創期を描いた短編で元・漫画家志望の女と、熟練の職人だったものの事故で首から下が動かなくなったしまった男の物語だ。この話は読みどころが幾つもあって、あまり説明を入れてこなかったけれどもこの「身体はガンガンサイボーグ的な何かへ、もしくは切除し脳だけになることも可能な世界」という身体変容の端緒の話でもあるし、当たり前に漫画家になることを諦め、それでも絵を描ける才能をこの世界で断片的にいかしていくという、「ゆるやかな創作との関わり方」も描かれる。
「……まあ、漫画家にはもうなれませんし無理なんですけどね。私は一応、『絵を描ける』という才能だけはありましてね。御園さんが家を建てられるみたいに、なんとその無駄な才能を発揮できるかもわかりません」
「……どっかのクソ漫画家が原稿落とした穴埋めでも頼まれたのか?」
「んー、まあ似たようなモノなんですが。絵の続きを描いてくれとの事で。……これがまあヘッタクソ極まりない絵でしてね。油絵なんですけど。素人が油絵て。笑わせてくれるモノでしてね。誰かが描きかけの絵が、私に回ってきて、おまえ画才あるだろみたいに言われて押しつけられて。そりゃあ描けますよ。似せてパクってコピーして。漫画家志望舐めんなよって感じで」
ちょっと長めに引用してしまったが「続きを描いてくれと頼まれる」エピソードはこの話だけではなく、時代と人を超えて繰り返し立ち現れてくるんだよね。それは人から人へと受け回され、絶対に完成しない絵なのだろう。それでも人はその絵を描き継いでいくことで、「押しつけられたよ、たはは」といいながら、かつて色々な理由で諦めたり、挫折したり、あるいは当たり前に続けていた「芸術」と関わり続けるきっかけになるのかもしれない。江波さんが虚淵玄さんと知り合いだったことからたまたま縁がつながって、新人賞に送ったわけでもないのに仕事を依頼されガガガ文庫からデビューするようになった実体験にも重なるようにも思う。*2
最後になるが第四話「ディス・ランド・イズ・ユア・ランド」はこの本の中で最も派手に事件が展開する話になる。それもまた大げさではなくあくまでも淡々と描かれていく。この「淡々さ」が、テーマとは別に、文体としてこの作品に統一感を与えている。世界は当たり前のように衰退して、人間は当たり前のように身体を捨て、変容させていく。絵を描くこと、音楽をつくること、小説を書くこと、何かをクリエイトする事に全力を傾注する人もいれば、ゆるく付き合う生き方もある。その距離のとりかたはとても心地のよいものだ。紛れも無いSFであり、江波イズムにあふれた作品に仕上がっていると最初に書いたが、その一端でもご理解いただけていれば幸いである。
*1:僕はそこには「悪いこと」を付け加えてもいいんじゃないか(人工知能なり効率は悪を潰すから)と思う