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時は遁走し、すべては過ぎ去っていく──『タタール人の砂漠』 by ディーノ・ブッツァーティ

タタール人の砂漠 (岩波文庫)

タタール人の砂漠 (岩波文庫)

まるで人生そのものの時の移ろいを小説へと移し変えたような作品だ。ぼんやりとしているとあっという間に時は遁走し、過ぎ去っていってしまう。一度去っていったものは決して返ってくることはなく、ただ懐かしむことしかできない。

本書『タタール人の砂漠』はイタリア人の著者ディーノ・ブッツァーティによる長編小説作品。イタリアの文学作家としてはイタロ・カルヴィーノと並んで評されることも多い作家の代表作だ。物語の主人公ジョヴァンニ・ドローゴは、若くして、町から遠く離れ娯楽もない辺境の国境警備職をあてがわれる。目の前に広がる砂漠からはいつか敵が来襲するかもしれないと言われているが、その兆候は微塵もなく「備え」である彼らは無為に砂漠を見続ける日々が続く。

敵の危険度が詳しく分析もされずにただただ兵を駐屯させて軍費を消耗させ続けるなんてバカなことがあるのか──具体的にどのような目算があって彼らはそこに留められているのか、といったいわゆるリアリティ的な部分はあまり問題にはならないし、描写もされない。結婚もできず、何一つ起こらない為に出世も望めず、娯楽は何一つない。唯一希望ともいえるものは彼らがそこにいることに「意味」を与えてくれる「敵性タタール人」の存在で、時折見える謎の影や、兵のようにみえる存在を見かける度に「ついにこの日がきたのか」と砦内は盛り上がる。

彼らはただ指令に従って砦を形式的に警備し、人生を摩耗させていく。必然的にそんなところへ配属させられた者達、特に若者は早く逃れようとするし、ドローゴもまた最初のうちはえらいところに来てしまった、自分にはまだ若く無限の可能性があるのだからこんなところから早く抜け出して、若い女の子と遊んだり出世の道を歩んだりしなければと焦り、行動を起こす。しかしその策が成ろうかという時、ふいに彼はこの砦に残る心変わりを起こしてしまう──。

馬は元気に駆けて行く。天気はいいし、大気は暖かく、爽やかだ。人生はこの先まだまだ長いし、まだ始まったばかりと言ってもいいほどだ。なんで城壁や、砲台や、堡塁の上にいる歩哨の姿に最後の一瞥をくれる必要があろう? こうしてゆっくりとページがめくられ、もう終わってしまったほかのページの上に重ねられる。だが、今のところは読み終わったページの嵩はまだまだ薄く、それに比べてこれから読むべきページは無限に残っている。だが、中尉よ、それでもやはりひとつのページが終わり、人生の一部が過ぎ去ったことにはちがいないのだ。

「何も起こらない砦の警備兵の日々を描く」というと「元祖にちじょう系4コマ漫画かな?」と思ってしまうがそんな生易しいものではない。仕事は大変ではない代わりに変化がないから日々は飛ぶように過ぎ去っていく。時折思い出したように休暇をとって地元に帰ってみると、過去の友人らは結婚し、仕事のスキルを増し、果てには子供がいたりする。仲の良い人間と子供と仕事に囲まれた、充実した人生。砦にいる彼らのそばには仲の良い同僚はいてもそれ以外は決して叶うことのない夢だ。

人生のページ

人間は生まれたばかりのころは多様な可能性を持っている。大統領になるかもしれないし、宇宙飛行士になるかもしれない。我々の世代では無理だが、次世代にはついに人間は火星へと到達するかもしれないし、その第一歩を踏み出す人間になる可能性だってある。子供の側だってそれはわかっている。自分は将来多くのものになれる可能性を内在している存在であるのだと。だからどれだけ今の自分がダメであっても、それは大きな絶望へと繋がることは少ない。

そうしたある意味での全能感も、時を経るごとに収束していく。40代になってしまっては、やろうと思ってもできないことは数多くある。宇宙飛行士になることは無理だし、サッカーをやったことがないのにプロサッカー選手になるのも難しい。我々はいつだって時間の流れに曝されており、身体的な劣化と定められた「終わり」がある以上我々はいつまでも子供の頃の可能性を内在しえない。

30年かけなければ達成できないことは20代であればなんとかなったとしても、60代では難しい。つまるところ我々はいつだってできうることが少なくなっていく、「可能性の収斂」過程にあるのだといえるだろう。ただそれだけのことではあるのだが、若いうちはあまりそのことを意識できず、気がついたときにはいつだって遅いものだ。

 だが、あるところまで来て、本能的に後ろを振り返ると、帰り道を閉ざすように、背後で格子門が閉まりかけている。そしてあたりの様子もなにか変わってしまっていることに気づく。日はもう頂点にじっと留まってはいず、急に傾きはじめ、もはや留めるすべもなく、地平線に向かって落ちて行く。雲はもう蒼穹にゆったりと漂ってはいず、次々と折り重なるように、足早に逃げて行く。雲も急いでいるのだ、時は過ぎるし、道もいずれは終わることが分かっているからだ。

まだまだ自分には時間があるさと、「来るかもしれない何か」を待ち望んで余裕をこいているうちに、あっという間に時間が過ぎ去って、気がついたら取り返しのつかないところにまで人生が進展してしまう。周りの人間はその時間を恋愛や結婚、子供や仕事に充てて自分よりもずっと幸せそうにみえる。人為的に作り上げられた希望──物語にすがっているうちに人生の黄金期は過ぎてしまっている……。

本書を正直に読めば、あっという間に過ぎ去っていく人生の時間を描きながら、それをこのように、無為に過ごしてはいけないのだとする教訓の書のようになるだろう。ドローゴは無為に過ごした青春時代を悔やみ、子供を生んで充実した人生を送っているようにみえる人たちを羨ましげにみるのだから。

当たり前に生きて、当たり前に死ぬこと

だが僕は読みながらまったく逆のことを考えていた。ドローゴのような人生は一つの理想形であると。大きな波はなくただただ同じような日々をすごし、それがゆえに10年20年といった時間があっという間に流れていく。結婚もせず子供もいないからいざ死ぬときにあっても一人ぼっち。ところで、一人ぼっちなのは悪いことなのだろうか? 寂しいのも? 別に悪いことじゃなかろう。誰にも記憶されず死んだ一週間後には誰も覚えていない人間であることは、悪いことなのか? 気がついたら何もなすことがなく、ただ無為に砂漠を見続けて死ぬのだというのであればそれで何か悪いのか? 

これまた僕はそうは思わない。「人生の意味」をどう捉えているかの問題かもしれない。子をなし、人間に囲まれ、仕事に邁進することを「人生の意味」とする人もいるのだろう。僕はそうは思わない、というだけの話である。生きている意味だけではなく死ぬ意味なんてものもないのだとするのが僕の思想だ。だから僕は「当たり前に生きて、当たり前に死にたい」と思う。主人公ドローゴの人生には大きな波といえるものは何もなかった。それでも小さな別れはあり、長年同じ砦で過ごした上官とは絆と呼び得るものがあったし、彼が日々を過ごした砦への愛着もやはり、あったのだ。

それを無為だと、意味の無い人生だったと言えるのだろうか。そうであるならば、逆に、意味のある人生とはいったいなんなのか? シェイクスピアの人生には意味があったといえるのか? たかだか人類の文明史に名前と作品を残したぐらいのことで? ドローゴはただ生きて、ただ死んでいくだけだった。その「なにもなさ」に憧れる。彼は死を前にして達観していたわけでもなかった。動揺し、後悔していた。それもいいだろう。おおいに泣きわめいて情けないところを見せればいい。そこまで含めて、「当たり前に生きて、当たり前に死んでく」その何もない生き様に惹かれるのだ。

本書は先日の僕が主催した読書会においてスゴ本のdainさんに「アラサーへオススメの本」としてオススメいただいた本だ。
40超えたら突き刺さる『タタール人の砂漠』: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる
ここの記事にある通り熱い語りであっという間に読みたくなってしまった。Dainさんの意図した通りには読まなかったかもしれないけれど、非常に楽しませてもらった。ありがとうございました