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問題を正しく認識する為に──『世界を破綻させた経済学者たち:許されざる七つの大罪』

世界を破綻させた経済学者たち:許されざる七つの大罪 (ハヤカワ・ノンフィクション)

世界を破綻させた経済学者たち:許されざる七つの大罪 (ハヤカワ・ノンフィクション)

原題は「Seven Bad Ideas How Mainstream Economists Have Damaged America and the World」なので特定の経済学者をやり玉にあげて叩き潰すような本ではなく(個人名は上げて指摘されるけど)主流派経済学者たちに受け入れられてきた経済理論の間違いを淡々と指摘していく一冊である。誰しも間違いを犯すし、それは経済学者であっても例外ではない。

つまり本当の問題とは、「問題のある経済理論を考えたり、現実に施行してしまう」ことではなく、そうした問題のあるプロセスと結論に対して自己批判が行われず、改善のプロセスが走らないことだ。本書は冒頭で『そうした考え方はこの三〇年ほど経済理論にきわめて深く根を張ってきたため、それを信奉している多くの経済学者たちは、きちんとした自己批判ができなくなっており、現実の経済に対する自分たちの視野が著しく狭くなっていることに気づいていない』と批判を行っている。

 経済学者たちが犯した重大な過ちは、二〇〇八年の金融危機を予測できなかったことだけではない。それよりはるかに憂慮すべきなのは、相場の崩壊とそれに続く深刻な景気後退をもたらした金融関係者の行動の多くを、経済学者たちの理論が助長したり、正当化したりしてきたことだ。そのような有害な理論は、一九七〇年代に影響力を増し、経済学の絶対的な「教義」になっていく過程で、数々の害悪を生んできた。

本書はその書名にある通りに、経済で信じられている/信じられてきた7つの理論を挙げて一つ一つ丁寧にその過ちを解説していく。基本的には実際に施行された例を元に間違いを指摘していく形なので、この問題指摘そのものに問題がある部分はそんなに多くはないのではないかと思う。もちろん恣意的な取り上げ方などでいくらでも操作可能だが、読んでいて大きな違和感は覚えなかった。

7つの内訳は次の通り。1.見えざる手、2.セイの法則と緊縮財政、3.政府の役割は限定的であるべしとするミルトン・フリードマン、4.インフレさえ抑制できればいいとするインフレ抑制理論、5.効率的市場仮説、6.グローバリゼーションを促進することで世界中が豊かになる、7.経済学は科学である。 以下、簡単にではあるが一つ一つその指摘されている内容に触れていきたい。

1つ目に取り上げられている見えざる手は、モノやサービスの価格は政府やその他の部外者が介入せずとも理想的な価格で合意し双方の利益は最大化されるという市場の自動調節機能をうたった理論だ。政府はその介入を極力なくし、市場の自動調節機能に任せるのがいい──シンプルで美しい理論ではあるが、このモデルは人々がつねに合理的な意思決定を下し、商品と価格に関するすべての情報を持っていることを前提としている。実際にはその全ての条件が満たされることはほとんどなく、限られた条件でしか当てはまらない。

2つ目のセイの法則は、商品や労働力、貯蓄のだぶつきを解消するにはさらに多くの商品をつくり、雇用を促進し給料を上げればいい。なぜなら労働者は手に入れた金を商品の購入に使うから結局需給が吊り合うようになるとするよくわからない理論である。実際には人間は稼げば稼いだ分だけ金を使ってしまうわけではない。将来が不安であれば貯金に回すし、そもそも欲しい商品がなければ買わない。理論の前提となっている部分が根本的に過っているのだ。

3つ目は政府の介入が限定的で極力市場に任せることで需給双方に利益があるといったミルトン・フリードマンの過ちだが、見えざる手と同様の問題なので割愛する。4つ目は将来の物価とコストと金利に関する不確実性が小さければ、人々は合理的な判断を下せるし全てはうまくいくとするインフレ抑制理論だ。これはやり玉にあげられている『インフレ・ターゲッティング』の著者らが「インフレ率と経済全般のパフォーマンスの関連性を直接裏付ける実証的な証拠を見つけることは難しい」と認めているように、なんの根拠も無い理論である。

5つ目は、金融市場は企業価値をかなり正確に反映しているし、投資家は合理的であるとする効率的市場仮説。この理論の核は、たとえ一部の人間が不適切な意思決定をしたとしても、市場全体としては均され、悪影響が打ち消される=故に正確に反映している、というものだが、実際にはほとんどの投資家にはわからない独占状態が起こっていたり、市場の情報はオープンではないし、そもそも人間は一部ではなく全員各種バイアスに晒され合理的ではない。合理的であるならバブルなんて起こるはずがないが、起こりまくりである。

6つ目はグローバリゼーションが促進され関税が撤廃され物流がよくなれば、各国が自分たちが最も得意な品物をつくるようになり、貿易は拡大し情報は瞬時に広がり賃金は上昇し、貧困は劇的にするという楽観的グローバリゼーションへの批判だ。幾つもの過ちの指摘があるが、一つピックアップすれば、たとえば国際貿易が拡大すれば低賃金労働者の置換によって職を失う労働者が出てくる。国際貿易は先進国のみならず後進国でも単純な発展を促すわけではない。自由貿易が全てをよくするという考えは単純でわかりやすいが、経済はそこまで単純ではない。

「思い込み」が信仰を生み出す

こうして一通りみていくと、信奉される経済理論にも幾つかの前提とされている傾向が見えてくる。たとえば「人間は合理的であり、情報はオープンである」「経済は単純な理論に落とし込める/シンプルでエレガントな理論は正しい」と大きく二つの思い込みが存在しているのがわかるだろう。

シンプルでエレガントな全てを説明してくれる理論には確かに引き寄せられるが大多数の人間が絡む経済は単純には割り切ることはできないことがほとんどである。人間は必要な情報が揃っていれば合理的な判断をすると思い込みたくなる気持ちもわかるが、実際には様々なバイアスに晒され容易に非合理的な行動を採る。我々はいかんともしがたい複雑さの中にあり、その複雑さを不当に単純化するのではなく、見据え、理解していく必要がある。

 しかし、正統派の経済学の核をなす主張は本当に正しいのか? 見えざる手にすべて任せておけば、ルールや規制を課す強力な政府や、良識とコミュニティへの責任を重んじる社会的伝統がなくても、社会に調和が生まれ、すべての人にとって好ましい状況が出現するのか? 見えざる手は、教育や研究や交通・輸送インフラに対する投資が適切になされ、企業の行動が十分に規制され、所得の分配が公正になされることを保証するのか? これらのニーズが満たされない状況を単に「市場の失敗」と位置づけ、問題に個別に対処すれば事足りるのか? 市場という考え方自体に根本的な欠陥があり、ときおり問題に対処するだけでなく、絶えず問題を是正し続ける必要があるのではないか?

7つ目の大罪として挙げられている「経済学は科学である」はなかなか厳しい皮肉である。『経済学があたかも科学であるかのように扱うことは害を生む。往々にして、経済理論を実際以上にもっともらしく見せてしまうからだ。』必要なのは最初に述べたように「問題を正しく認識し、改善のプロセスを走らせること」なのだ。