実際、それが誇張表現ではないぐらい彼が一人で成し遂げたことは凄まじかった。その天才性は幼少期から発揮されていて、古代ギリシャ語やラテン語をマスターし、母語のハンガリー語だけでなくフランス語、ドイツ語、英語も話した。45巻の世界史全集を読んで、それから何十年も経った後でも第一章の内容をそらんじることができたという。晩年に至ってもその能力は衰えない。『フォーチュン』誌の1955年6月号に掲載された「我々はテクノロジーを生き延びられるか?」と題されたエッセイでは、遠隔通信の発展による紛争のエスカレートと共に、石炭や石油を燃やすことによる二酸化炭素の排出がこの惑星を温暖化させることへの危惧も語られている。
彼は気候変動への危惧をのべるにとどまらず、表面の塗装によって太陽光の反射量をおさえ、地球を意図的に暖めたり冷やしたりする発想──今で言うところのジオエンジニアリング──を語っている。しかも、そうした高度な気候制御は、想像だにされたことのない気候戦争の各種形態に適しているとまで指摘しているのだ。
コンピュータへの貢献、ゲーム理論やセル・オートマトン理論の想像など、何が必要なのかを把握し、未来からやってきとしかいいようがないぐらい、現代に必要な技術や概念をもたらした男なのである。それはもちろん原子爆弾のような破滅的な産物ももたらしたわけだが、それも含めてわれわれの生活の至るところに彼の痕跡が残されているからこそ、死後70年近くが経つ今でも彼のことを知る意義は大きい。
今や科学者、発明家、知識人、政治家に取り入れられてきた彼の見方や発想の影響は、人類という種は何者なのかについての私たちの考え方に、私たちの社会的および経済的な相互交流に、さらには、私たちを想像を超えた高みへと引き上げる可能性もすっかり破滅へと導く可能性もある機械にまで及んでいる。身の回りに目を向ければ、ジョニーの指紋が至るところに付いていることがわかるはずだ。
フォン・ノイマンが成し遂げてきたこと。
彼の成し遂げてきたことの要約をすると、最初の業績は量子力学の数学的な土台の構築に貢献したことだ。それが22歳の時。その後、1930年にアメリカに移住し、いずれ戦争が起こると予測していた彼はその時に備えて弾道や爆発の数学を研究。その功績もあって後に原子爆弾開発・製造のためのマンハッタン計画にもオッペンハイマーからじきじきに請われて参加し、ここでも当然目覚ましい成果をあげている。
たとえば、ロスアラモスで原子爆弾の開発に携わった科学者が大勢いるなか、「リトルボーイ」を上回る威力の「ファットマン」がプルトニウムコアの圧縮によって起爆するよう爆薬の配置を定めたのはフォン・ノイマンだった。
計画に加わったのと同年に、経済学者のモルゲンシュテルンとともにゲーム理論に関する研究も行っている。ゲーム理論は囚人のジレンマやナッシュ均衡とともに今では経済学の分野で名前をきくことが多いが、応用範囲は政治学、心理学、進化生物学(まだまだあるが)と広い。たとえば動物の利他的な行動が起こり得る理由についての研究もゲーム理論を軸に発展してきた面があるなど、今もなお「対立と協調」を数学的に考えるにあたって重要な概念である。これでも彼の業績は終わらない。
設計に携わった原爆が広島と長崎に投下された後、フォン・ノイマンは電子計算機の開発に向かうことになる。爆弾から計算機への転身は領域としてかけ離れているようにも見えるが、無関係ではない。フォン・ノイマンは30年代から計算処理に関する関心を抱いていたが、それは弾道計算や爆発のモデル化に必要となる計算量が膨らんでおり、当時の卓上計算機の力が及ばなくなるとすでに見込んでいたからだ。
フォン・ノイマンはプログラム内蔵型コンピューターの構成をはじめて記述するが、その構成には5つの「器官」が存在する。加算や乗算などの演算を行う「中央演算」装置、命令が適切な順序で実行されるように制御する「中央制御」装置、コンピューターのコードと数値を格納する「記憶」装置。残りの二つは「入力」と「出力」装置だ。彼が作ったフォン・ノイマン型アーキテクチャは今なおコンピュータ(スマホもノート/デスクトップPCも)の基本的な構成法の一つであり続けている。
また、単にコンピュータを作るにとどまらず、情報処理機械が特定の条件下で増殖、進化できることも1948年の講演で示し、こちらはオートマトン理論として結実していく。これも実はコンピュータと関連している。優れた性能を発揮する人間の脳は自分を勝手に作り上げる。だから、自己増殖する機械の仕組み、アルゴリズムを考えることは、彼にとっては脳のようなコンピュータを作ることに繋がっていた。
その後、脳とコンピューターとのあいだに見られる仕組みの類似点に関する彼の思索が、人工知能の誕生に一役買って、神経科学の発展に影響を及ぼした。
フォン・ノイマンの実績の多くはすぐに実用化や役に立てられてきたが、この分野で彼が成し遂げたことの真価が発揮されるのは、さらに未来になるだろう。たとえば、自己複製を繰り返し指数関数的にその数を増しながら宇宙を探索する探査機を考案したのも、この男なのだ。
フォン・ノイマンの最後
どんな天才であっても病には勝てない。彼は1955年に骨肉腫を発症し、そのままあれよあれよというまに転移は進む。娘のマリーナが死に向かう父にたいして、「何百万人という人を死に追いやることについては平然とじっくり考えていられる」のに、「自分が死ぬことになるとだめなのね」と問いかけたが、これにたいしてフォン・ノイマンは、「それとこれとは全然違う」とシンプルに答えている。
ノイマンは日本人の戦争意欲を完全に喪失させるためには、歴史的文化的価値が高い京都に原子爆弾を投下すべきだと主張するなど、目的を達成するための合理的思考がいきすぎた人物でもあった。本書には彼の善性についても触れられているが、悪魔か天使かといった、どちらか一側面だけの人間でないのは間違いない。
このふたつは水面下で戦っていた。フォン・ノイマンは性善説の勝利を望み、できるだけ寛大かつ高潔であろうとした。だが、経験と理性は人間の善意を信じすぎるなと彼に教えていた。
そうした、天才の複雑性が、本書にはしっかりと描き出されている。
最後にがんは脳に転移し、知力は徐々に落ち、7+4のような単純な計算問題も解くのが難しい状態だったという。誰よりも頭の回転が早かった男は、その頭が働かなくなっていった時に何を考えたのだろう。