『タコの心身問題』は本邦での刊行が2018年で、その後何度も「人以外の生物の心、意識」や「タコの知性について」語る時にこのブログや他所の原稿で何度も取り上げてきたノンフィクションだったが、本作(メタゾア〜)もそれに勝るほどの知的興奮を与えてくれる傑作だ! 本作でもタコの話題が前作より最新の情報とともに語られているので、ある意味では続篇にしてアップデート版といえる内容に仕上がっている。
タコに続いての「メタゾア」なので、当然本作ではメタゾアの心と意識について触れていくわけだが、メタゾアとはなんなのか。これはかつて生物学者ヘッケルが19世紀末に導入した用語で、基本的には多細胞動物のこと──つまりほとんどの動物のこと──を指している。本書では「自己」との関わりにおいて進化的に重要な動物──カイメンやハチやタコ──に絞って、その「心身問題」を扱っていくことになる。ハチやタコの体も脳も人間とは大きく異なっていて、人間と同じように世界を感じているわけではない。しかしそれは「何も感じていない」ことを意味しない。大なり小なり彼らは彼らなりのやり方で世界を経験しているのであって、本書がテーマにしているのはまさにその部分──彼らはどう世界を経験しているのか──にある。
私たちは、現在するさまざまな生物を手がかりに、生命の物語をその始まりから歩いて──這って、泳いで、身体のサイズを変えながら──追いかける。それぞれの動物の身体や感覚の機能、行動の仕組み、世界とのかかわり方からの学びだ。この動物たちの助けを借りて、過去の現象ばかりでなく、今日私たちの周囲に存在する多様な主観性のあり方を理解することを目指す。
ヤドカリは痛みを感じているかもしれない
本書では最初、カイメンやサンゴのような比較的シンプルな構成の動物からはじまって、エビやタコ、魚に昆虫──と次第に取り扱う対象を遷移させていく。個人的におもしろかったのは、エビやヤドカリといった甲殻類の経験についての章だ。
エビやヤドカリは痛みなど感じていないと一般的に思われているが、実は「痛みのようなもの」を感じている可能性がある。ある動物が痛みを感じているかどうかについてどう判断すればいいだろうか。たとえば何らかの攻撃を加えて、何らかの反応が返ってきたとしても、それは単なる反射なのかそれとも経験として苦しさを感じているのかの判断はつかない。そこで、ダメージを食らった時にそこを手当するとか、痛みを和らげる化学物質を探すとか、ダメージの結果から反射以外の行動が起こるか(トレードオフなど)を見ることで「痛みの感覚らしきものを持っている」指標とする。
エビの例からいくと、彼らは触覚に酢や漂白剤がつくと、触覚をきれいにするような動きをし、水槽の壁に触覚をこすりつける。これは「傷口にたいする手当てをする行動」に含まれるだろう。おもしろいのはヤドカリの例だ。ある実験では、ヤドカリに弱い電気ショックを流す。そうするとヤドカリは住処の貝殻を捨てるのだが、彼らが状態の良い貝殻に棲んでいる場合は、それを捨てるのを渋って耐えたのだという。また、近くで捕食者の匂いがするときも、なかなか殻を捨てようとしない。
この実験が示唆しているのは、ヤドカリには善い、悪いと感じる一連の事象や可能性が存在し、弱い電気ショックによる痛みにたいして通常は殻を捨てるぐらいには悪いと感じる一方で、それ以外のリスクも勘案して行動を決定しているということだ。おもしろいのが、電気ショックを与えられて貝殻から出たヤドカリは、そのあとでその殻を入念に調べることもあったという。何か異常を探しているかのようだ。
この結果だけで「甲殻類が痛みを感じている」と結論できるものではないが、それを示唆するものではある。現在社会的に、甲殻類にたいする痛みの配慮は存在しないし、生きたまま茹でたりもしているが、もし甲殻類も痛みを──人間と同じではないにせよ──感じているのだとしたら、その状況は変わってくるのかもしれない。
タコと分離脳の話
著者は10年ほどオーストラリアにある二つの場所でタコの観察を続けているのだが、観察結果を知るといかにタコが複雑な生物なのかがわかる。たとえばタコは巣を作ったり掃除のためだったりで物を投げることがあるのだが、メスがしつこく迫ってくるオスのタコに物を何度も投げつけることもある。小型のカメラをタコが見つめて、突然死んだカイメンを自分の身体に覆わせてカメラから身を隠したりもする。
タコは普段群れをつくらないが、そのわりにまるで社会性の動物のように、人間の視線や他者(他タコ)のことを意識した行動ができるのだ。それには、ニューロンの数も関わっているだろう。タコは犬に近い5億個ものニューロンを持っているが、脳ではなく腕にその3分の2が集まっている。そのせいなのかどうか、タコを観察していると、何かを吹き出して腕も含めた統一体として身体全体で移動することもあれば、反対に腕一本一本が自分の意志を持っているかのようにバラバラに動いていることもある。
そうした事例をふまえて、タコの「自己」については複数の説が提唱されている。ひとつめは、人間と同じように、腕に多大なニューロンがあるにしても統制としてはひとつであるとする普通のもの。ふたつめは、腕は個別の脳といえるものであり、自己は1+8存在する説。みっつめは、タコの腕と脳は1+1の関係とするもの。著者はここに別の可能性を加えていて、タコの腕と脳の関係は「1」と「1+8」をスイッチングしている──とするものだ。これは、人間でいう「分離脳」のような状態だという。
人間の重度のてんかん患者は、脳で起きた発作が反対に伝達することを防ぐため、大脳半球を連結している脳梁を切断することがあり、この状態を「分離脳」と呼ぶ。で、この手術を受けた患者は、一人なのに二つの心を持つようにふるまう場合がある。基本的に分離脳であっても実験状況になければ分離しているようには見えないのだが、片目・脳半球ごとに別々のものをみせると、答えがバラバラになるのだ。
これと同じように、タコもある時(どこかに向かって移動したい時とか)は8本の腕まで含めて統一された単独の行為者であるが、また別の時は腕は勝手に動いて周囲の様子を探って情報を集める、「1」と「1+8」のスイッチングを行っていて、後者の時のタコの中枢は腕の動きを「自分のもの」とは認知していないのではないか(各腕から得た情報は中枢にも伝わるが)──と著者はいうのである。
おわりに
タコやヤドカリの事例をみただけで、われわれが気軽にいう「心」とか「意識」というものは、「ある/なし」で語られるようなものではなくて、生物種ごとにまったく異なる形で立ち現れるものなのではないかという考えが浮かび上がってくる。人間以外の知覚を想像する主体はどうしても人間になるから、自分に引きつけて考えてしまうのは仕方がないが、しかしその枷からは脱却する必要があるのだ。
ヤドカリやタコなどにはおそらく何らかの形の経験があるといったん認めると、広い見方──人間以外の動物にあって、なおかつ人間にもある、すべての動物を経験する存在にしているものについての包括的な説明──が必要になる。じつはそれこそ、私が本書で進展させようとしてきたものだ。(p274)
本書では他にも魚にはどのような知覚があるのか(痛みは感じているのか、自己を認識することはできるのか)や、一般的に痛みがないとされる昆虫に本当に痛みがないのかについての現代的な検証など、「各種動物がどのように世界を経験しているのか」についての、広範な仮説・研究が大量に紹介されている。
近年、『魚にも自分がわかる──動物認知研究の最先端』をはじめとして、「これまであまり知的と思われてこなかった動物たちに高度な認知機能が備わっている」ことを示すことが次々と明らかになってきていて、個人的に注目の領域になっている。
本書で述べられていることの多くも仮説であり、ヤドカリやエビに痛覚らしきものがあることが確定したわけではない。それでも、彼らの「経験」が、それぞれ程度の差こそあれど豊穣なものである可能性が、本書を読むとよく分かるはずだ。