- 作者: ミシェルウエルベック,佐藤優,大塚桃
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2015/09/11
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (2件) を見る
それはそうとして本書はずいぶん面白かった。一人の、とっくに頂点を過ぎ去り、無気力で、諦め、状況に流され続けていく男フランソワ・オランドを通して、政治的に大きな激動が起こって世界の景色が一変していく様を説得力を持って描き出している。時代が現代ではなく未来に設定されているのは、ここで描かれていくフランスでイスラム教系の政党が与党となる政治状況がそれぐらい先にならないと成立しえない(逆に、7年後には成立する可能性がある)からだろう。
物語の語り手は、元々優秀な学生であり一握りの「もっとも秀でた学生」しかなることのできない文学研究の教職を得た一人のインテリの男だ。ジョリス=カルル・ユイスマンスの専門家としてかなり出来の良い博士論文を書き、その後も基本的には順風満帆に教員生活を送り、毎年のように女子学生たちと寝て、性生活にも不自由せず教授にまで無事昇進。
特に政治的な主張はなく、ノンポリであるものの「家父長制」について「少なくとも存在するだけの価値はあると思う」など多少の偏りはみられる。知的活動に割く時間は年々減り続けるものの、特段そうした生活に大きな失望を覚えることもなく、逆に自殺したいほどの物足りなさを感じることもなく、ただただ日々を過ごしている。
ぼくの人生における頂点は博士論文の執筆と本の出版だった。しかしそれはすべて十年以上前のことだ。知性の頂点、というよりは、ぼくの人生そのものの頂点というべきか。
孫子やクラウゼヴィッツなど数々の知識に通じ、それを必要に応じて引き出し、文学論もおてのもの。社会に、政治に、自分の人生に対してのインテリらしい淡々とした語りが続くが、全体を通してみると25%ぐらいが(僕の主観だが)恋人の学生やかつて付き合ってきた女たちやエロ動画や売春婦との性生活の話だ。下世話そのものだが「人生で特に達成する目標もなく枯れていくインテリはそんなもんなのかな」というある種の納得感もそこに感じてしまう。
反対に、同僚たちの無気力さには驚かされた。彼らにとっては、何も問題はなく、まったく自分には関係がないかのようで、それはぼくがこの何年間か思っていたことを裏付けした。いったん大学教員のステイタスを獲得した者は、政治の変化が自分の職歴に少しでも影響を与えうるとは想像だにしない。彼らは孤高で不可触な存在だと自分たちを見なしているのだ。
まるで自分は違うとでもいうように書いているが、彼自身もまた「諦めきって無関心で無気力な」大学教員の一人なのである。このつまらない男の生活それ自体は単調なものであっても、取り巻く状況が劇的に変化していく。
イスラーム同胞党がフランスで大きな力を持つとき
2022年。大統領選が近づいている。イスラーム系の政党であるイスラーム同胞党がフランスでは着実に大きな力を持つようになっており、近づく大統領選挙において移民排斥を訴える国民戦線(フランスの極右政党)とイスラーム同胞党の代表がそれぞれ二大候補となっている。どちらの政党支持者も緊張が高まっており、都市部で銃撃を伴う抗争が起き、報道規制によって情報はネットにさえ一切上がってこない。
イスラーム同胞党は宗教を基盤とした政党だからその主張には当然ながら宗教的な要請が含まれている。たとえば教育。フランス人の子弟は、初等教育から高等教育に至るまで、イスラーム教の教育を受けられる可能性を持たなければならない。イスラーム教の教育では男女共学はありえないし、ほとんどの女性が初等教育を終えたら家政学校に進み、できるだけ早く結婚することを希望している。
食事制限、毎日5回の礼拝、それから一夫多妻制。もちろん全てのフランス国民がイスラーム文化を受け入れろという話ではない。制度的に二重化になる、というだけの話である。しかし少なくとも宗教上の要請として女性の自由は著しく後退するし、国家における教育や規則といったものを綺麗に二重化できるはずもないことが物語が進むうちに明らかになっていく……。
「そんな状況を国家として、投票の結果として容認されるなどありえない」と思うかもしれない。本書では極右政党である国民戦線を打倒するためには社会党とイスラーム同胞党が合意を結ばなければならず、国民は苦渋の決断の上イスラーム文化を受け入れる選択をすることになる。僕はフランスの政治的なパワーバランスを現時点では把握していないから、ここで描かれている状況に「現実的な説得力があるのか」と言われると「わからん」としか答えられないが、物語としての納得感は存在している。
暴動は過激化し、大学は閉鎖し、フランソワ・オランドはガラガラの高速を走りパリを後にする。道中目にするのは紛れも無い行き過ぎた暴動の跡だ。パーキングエリアで死亡している二つの死体。破壊された街。選挙は過熱していくが、ついにUMPと民主独立連合、社会党が野合しイスラーム同胞党の候補者を支持。フランスは国家としてイスラーム教とそれ以外の二重社会へと突入していくことになる。
一変していく世界
次第に変化していく社会、揺れ動く政治的パワーバランス、無気力なインテリ男の若い女の子たちとのセックスライフとここまででも十分に面白いのではあるが、小説的にはここからもっと面白くなる。フランソワ・オランドはしばらく離れていたパリへと戻っていく時に様々な「イスラーム教が力を持ったフランスで起こっていること」を目の当たりにすることになる。一夫多妻制、服装の変化(『女性の尻を眺めるという、最低限の夢見る癒しもまた不可能になってしまったのだ。』)
変化は確実に進んでいた。客観的な変動が起こり始めていた。TNT(地上波デジタルテレビ放送)の各局を何時間かザッピングしただけでは、補足的な変化に気づくことはできなかったが、どちらにしても、エロティックな番組はずっと前から、テレビの流行ではなくなっていたのだ。
変化はゆっくりと、だが確実に進んでいく。周囲の状況から、そしてついには彼自身にまで大きな選択の時がやってくる。そうした時に人は「服従」してしまうのか。するとして、どのようにそれが起こるのか。あまりにも淡々と、ある意味では簡単にそれは起こる。本書の政治状況に「現実と地続きの納得」を感じるかどうかは、先に書いたように僕はわからない。シリア難民が欧州へ継続的に流入し*1国籍を取得すれば──とも思うが状況は流動的で予測不可能だ。
それでも少なくともいえるのは、フランソワ・オランドの心情の移り変わり、それ自体には切実な説得力がある。インテリの男の国家を取り巻く政治状況への無気力感、そしてなんだかんだいって社会の上流階級であるが故に「流され続けることができてしまう」残念さ。人間というものが、知性の有無というよりかは自身を取り巻く環境そのものによってある意味ではコントロールされてしまう無慈悲さがフランソワ・オランドを覆っている。
この記事の最初に「少なくともサイエンスの要素は一切ない。」と書いた。それでも、この「想像したこともなかったが、ありえるかもしれない未来の景色」を現出させる力技は、自分自身の固定観念を塗り替え、拡張するSF的なセンス・オブ・ワンダーと通じている。儀式が排除されていった先進国において儀式が復活しまったく違った光景が立ち現れる可能性がここにはある。それは、現代の予言の書とかどうとかいうことを抜きにして、物語的な面白さに満ちている。