- 作者: 田中啓文
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2015/09/08
- メディア: 文庫
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小説というのは、文字で表現しえる何ものでも表現しえる形式なのであるから、映像でも絵でも表現し得ない無茶苦茶なことをやるぶんには小説の方が有利であるとはいえる。そうはいって突然宇宙艦隊が5億隻突然地球に攻め込んできて──とはなかなか書けないものである。なぜ5億隻なのか、何のためにやってきたのか、そういう部分があやふやだったり適当だったりすると「なんじゃそら」で終わってしまう。
『ガラスの地球を救え!』
だが田中啓文という作家はその類まれなる筆力によってあっという間に無茶苦茶な前提を積み上げて笑いと共に異星人に地球を侵略させわずか数行のうちに人類を壊滅状態にまでもっていってみせる。無茶苦茶な展開をやりながら、それを成立させる力技と技術がこの短編集にはつめ込まれているのだ。『ガラスの地球を救え!』を例にとってその技法について考えてみよう。
「我々が本気である証拠を今からお見せしよう」
巨大船団から放たれたビームにより、冥王星の観測所とその周辺数キロが一瞬にして蒸発した。
「無茶苦茶だ!」
そのとおり。無茶苦茶である。
自分でこの展開のことを「無茶苦茶である。」と認めてしまうのが一種のギャグではあるが、実は無茶苦茶な展開ながらも発達した人類文明が近郊の宙域はあらかた捜査し異星人など影も形もないこと、よって相手は少なくとも千年以上の時間をかけて航海してきたこと、食料や老朽化対策などはどうなっているんだとわりと真っ当なツッコミがテンポよく入れられ、相手が珪素生物であることも明らかとなる。
ようは、無茶苦茶な展開をいきなり導入するわりにそれなりにセルフツッコミを入れ、最低限の理屈付けをテンポよく重ねていくことでバランスをとっているのである。もちろんそれが長々と続いたりはしないし、シリアスの方に振りきれることもない。むしろ、最低限の理屈という重しを得て最大限飛べるところまでバカバカしくしてやるぞと言わんばかりにアクセルを踏み込んでいく。
『ガラスの地球を救え!』のラストは、地球の危機であるその時にヤマトが波動砲を発射しなんとか撃墜するのだが、ヤマトには波動砲発射と同時にすさまじい反動で地球に向かってバックしてしまう致命的な弱点があった。これを解決するために持ってきたウルトラCはあまりにもバカバカしいのだが、「その展開だったら、しょうがない!」というスカッとした、笑いと面白さ故に許してしまうバカバカしさがある。
実はこの一見したところ無茶苦茶なヤマトの波動砲ラストにも、最初からそこへ向けて周到に前提が積み上げられていく。「当たり前のツッコミ」や「多少凝った理屈」を重しとしながらも、その重しを吹っ切って無茶苦茶なことをやるには「これはこういうことがありえる世界観なんですよ」というリアリティレベルの設定とその展開が読者にとって「それは受け入れるしかあるまい」と思わせる納得感が必要なのだ。
この短篇だと、手塚治虫という誰もが知っている巨匠やSF、マンガやアニメや小説文化への愛が前提となっている。ヤマトや石ノ森章太郎、光瀬龍も広瀬正もハインラインもディックも全部ひっくるめて好きな人々はこの短篇のラストに笑いだけでなく無性に感動を覚えるはずだ。この短篇集、ほとんどは無茶苦茶な展開を迎えると書いたが、その無茶苦茶な展開の仕方もそれぞれでホラーありSFあり怪獣あり歴史ありゾンビありで多彩・多様な内容になっている。いくつかピックアップしてみよう。
屍者の定食
特にトリビュートではなく、冒頭は真っ当なゾンビもの。ゾンビに襲われた被害者が次々とゾンビになっていき世界を席巻した世界で、料理人の男はあまりのつらさにゾンビになることさえ妄想しながらも、ゾンビになったらろくな食事ができないことを理由に諦めずに逃げ続けている。しかし、ある時「ゾンビ・クッキング」というゾンビ料理本を発見してしまい──という展開をするバカバカしい短篇である。
世界がゾンビに侵されていく描写、ゾンビから逃げまわる描写はありふれたものだが突如放り込まれたゾンビ・クッキングの概念、そして詳細に語られていくゾンビ料理の手順をつうらつらと読み進めていくうちにまったく異なるゾンビ小説が立ち上がってくることになる。オチはあまりにひどいがこれしかあるまい、という感じだ。
イルカは笑う
表題作。現・地球支配者である三頭のイルカが、人類最後の男に向かって地球の支配権の引き継ぎを要請する短篇である。「引き継ぎます」といえばいいだけなのだが、男はイルカ嫌いで──。イルカがいかにして支配者が人類からイルカに切り替わっていったのか、その壮大な文明の切り替わりの歴史語りが短いながらもわくわくが凝縮されていて面白い。もちろんイルカは最後に笑います。それも、ひでえ笑い方で。表紙イラストを見た瞬間分かる人にはオチがわかってしまうなかなかの曲者。
本能寺の大変
これもダジャレタイトルだ! 基本ダジャレかどっかのパロディな短篇名である。信長と秀吉が「巨人になることができる薬」を1錠ずつ持っていたら──という状況から始まる田中啓文版本能寺の変。本能寺をとりまいて絶体絶命かとおもいきや突如巨大化して『余は第六天魔王織田信長である。』と宣言し周囲の度肝を抜かしながら蹂躙してみせるさまは痛快である。むしろ明智光秀を応援したくなる。
進撃の巨人だ! と言いたくなるかもしれないが本人の弁によればこれは怪獣とのことだし、何しろ口から青白い炎などを吐くからもはや巨人とかそういう感じじゃない。往年の怪獣作品へのパロディもそこら中に敷き詰められており、歴史ものであることもあいまってなんだか異常に情報量がつめ込まれた短篇になっている。
熱血スポ魂ものと吸血鬼ものを組み合わせた「血の汗流せ」など異種格闘技戦めいた短篇はどれも面白い。あとはど真ん中のSFだと、<サブブレイン>と呼ばれる人工の外付け脳が人類に広く行き渡った世界の「みんな俺であれ」は短いながらもその特性とオチが綺麗につながっており爽快感あふれる作品に仕上がっている。
おわりに
笑いを描くには常識とされる価値観、考えをズラして捉えることが一つには肝心ではあるが、それ故笑いをロジックとして生み出せる人々は必然優れたストーリーテラーでもある。王道がわからなければ王道からズラすこともできないからだ。12篇、どの作品も笑え、どれもがストーリーまで含めて一級品である。