堆塵館 (アイアマンガー三部作1) (アイアマンガー三部作 1)
- 作者: エドワード・ケアリー,古屋美登里
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 2016/09/30
- メディア: 単行本
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物語の時代は19世紀後半、舞台はロンドンの外れの巨大なごみ捨て場である。そのごみ山の中心に書名でもある『堆塵館』という巨大な、城のような館が鎮座しており、ごみから財を築きロンドンの全負債を肩代わりしていると噂されるアイアマンガー一族が住んでいる……。冒頭で明かされるこうした設定だけ読んだ時は、歴史小説、一般小説、あるいは家族の小説なのかな? と思ってしまったが、読み進めていくとその異常性──というか、本書の分類不可能性が次々と明らかになっていく。
簡単なあらすじとか設定とか
とはいえ、基本的に物語はアイアマンガー一族に沿って展開されるので、少なくとも「家族の小説」であることは確かである。物語は、アイアマンガー一族のクロッド・アイアマンガー少年(15歳)の視点からはじまる。叔母さんが安全ピンを失くしたといって騒いでいるが、彼は一部の物の声(とはいっても物は「名前(パーシー・ホッチキスとか)」しか言わないのだが)を聞き取れることができるので、安全ピンという探すのが極端に難しいそうな小物であっても簡単に見つけ出してみせるのだ。
アイアマンガー一族では、赤ん坊が生まれると、おばあさまが選んだ特別な品物を与えられる。それぐらい普通だろと思うかもしれないが、与えられるのはなんの変哲もない浴槽の栓とか、真鍮のドアの把手とか、ようはそれ単体ではたいして役に立たないゴミのようなものなのだ。しかしアイアマンガー一族は与えられたそれを肌身離さず身につけ、まるで自分自身の象徴のようにそれを大切にするようになる。
物語が動き出すのは、この堆塵館に「彼女にはアイアマンガーの血が少し流れているから」という理由で、ルーシー・ペナントという少女が孤児院から引き取られてやってきてからだ。館にやってきた彼女は、地位の低い召使なので、「アイアマンガー」とだけ名乗り、呼ばれるように強制される。しかし彼女はかたくなに「わたしはルーシー・ペナントです」と自分の名前を主張してみせる。そりゃそうだろう。
館には彼女と同じように外から血縁として連れてこられた人間が大勢いるが、なぜか誰も自分の元の名前を思い出せないし、どんな経緯でここに来たのかも思い出すことができない。しっかりと自分の名前を意識しており、この異質で異常な一族に取り込まれまいと必死に踏ん張っているルーシーは、少なくともこの館の中にあっては明らかに異質な存在だ。彼女は物の声を聞くことのできるクロッド少年と出会うことで、この館とアイアマンガー一族全体へと大きな波乱を巻き起こすことになる。
文体、情景描写
本書の魅力は無数にあるのだが、説明が難しいものばかりだ。たとえば「描写」「文体」や「会話劇」がそれにあたる。文体はゆるい部分もあればぴりぴりと引き締まった部分もありと緩急の付け方が抜群で、会話は重力から解放されているように自由である。伝えるには実際に読んでもらう他ないので、情景描写をひとつあげてみよう。堆塵館の屋根にのぼり、そこからごみの広がる下界を眺め回した際の描写だ。
堆塵館の屋根の上は鳥たちの支配する国だった。この屋根の骨組みと漆喰は、鳥の羽根と排泄物でできていた。鷗のほかにも翼のあるものがたくさんいた。鳩もいた。一本足や片目の、かさぶただらけの町鳩がたくさんいた。(…)ぼくはまわりを見、下を見た。見渡す限り、ごみだった。
無数の尾根と谷、たくさんの山と渓谷、無数の深い場所。それらが形を変えてうごめき、悪臭を放ち、鋭い音をたてている光景は、壮大なものだった。全体が波打ち、歌を歌っていた! アイアマンガーに生まれたからには、このごみの山を誇りに思わないではいられなかった。
長いので少し切ってしまったが、このテンションで全篇語り通しである。しかし……一個一個解体していくと現実的な描写といえなくもないのだろうが、はじめてここを読んだ時は異世界の描写を読んだような異質な感覚にとらわれたものだ。まず屋根を描写するのに「鳥たちの支配する国だった」という語り出しが抜群にカッコいい。
セリフのスタイル
セリフのスタイルがまた独特である。
たとえば、ルーシーは『「わたし、ほかになにも持っていないの! なにひとつ持ってないのよ! 自分の物はひとつも。ひとつもないのよ、クロッド! 自分の物が! あなたは取り上げたりしないわよね? これ、ちょうどいい重さ、完璧な重さなのよ」』と館で「誕生の品」を盗んでしまったことへの自己弁護をするのだが*1、彼女のこのセリフを繰り返しながら主張を強調していくスタイルがまた気持ち良い。
下記引用部は、ルーシーが、寝ているアイアマンガーの女性の大切な誕生の品「片手鍋」を、嫌がらせのためにもいただいちゃおうとしている場面の語りである。
でも、わたしはアイアマンガーたちが嫌いよね? わたしのそばでそんなことしてもらいたくないわよね? それで自分にこう言った。いただいちゃおう。わたしがいただいちゃいましょう。片手鍋があれば叩くことができる。護身用になる。あなたのこのいまいましい誕生の品が役に立つのよ、いびきかきアイアマンガー。頭の悪いアイアマンガー。そう、いただいちゃうのよ。
もう僕はこの「いただいちゃおう。わたしがいただいちゃいましょう。」のテンポが大好きで、ルーシーにかぎらずセリフの端々から(上記引用部はセリフというか独白だが)キャラクター性が立体的に浮かび上がってくるのがたまらなく愛おしい。
物たちの世界
物語は後半に至るにつれ、よりファンタジックで幻想的な描写の度合いが増していくが、それがまた美しいのは読んで確かめてもらおう。個人的に楽しかったのは、ガラクタのような物たちが実に愛おしく描かれていく部分だ。たとえば、クロッド少年が大切に持っているのは「なんの変哲もない浴槽の栓」である。ゴミとしかいいようがないが、クロッド少年からすればそれは多様な象徴を持つ大切な品になる。
「栓を抜けば、悪いものや毒物をすべて消してしまえる。栓を引っ張ってみなくちゃ、なにが起こるか、なにが出ていくか、なにを閉じ込めていたのかわからない。栓があればいいものをとっておける。栓は開けるものであり閉じるものであり、小さな丸い扉なんだ。ふたつの世界を隔てる扉なんだよ」
世間一般からしてみればガラクタのように思えるもの達であっても、本書の世界ではひとつひとつに重要な複数の意味が与えられ、まるで一個のキャラクターであるかのように実に生き生きと描かれる。それらが集積されることによって、『堆塵館』という美しいごみ山としか言いようがない特異な世界を創り上げていくのだ。類似する読後感の小説がすぐには思い浮かばない、*2とんでもない作品だ。ちなみに三部作のうちの第一部で、かなり「続きが気になる」ところで終わっているので、一緒にやきもきしながら待とう(売れないと二部も出なそうな雰囲気があるので買ってほしい)。