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黒い迷宮: ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実 by リチャード ロイド パリー

黒い迷宮: ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実 (ハヤカワ・ノンフィクション)

黒い迷宮: ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実 (ハヤカワ・ノンフィクション)

  • 作者: リチャードロイドパリー,Richard Lloyd Parry,濱野大道
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2015/04/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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5月の今月読む本 その1 - HONZ 僕はHONZというノンフィクションレビューサイトに執筆者として迎えていただいているのだけど、当然ながらけっこういろいろな影響を受けている。この『黒い迷宮』という本も、先日行われたHONZの朝会(朝7時から六本木に集まって今月のこれから読む本を発表しあう)で東えりかさんが随分と推していたのでそれならばと普段手に取るジャンルでもないのに読んでみた一冊だ。今まで自分の興味ジャンルが狭いと思ったこともないのだけど、「ああ、意外と世の中にはたくさんの本(と個人個人で広くばらける興味範囲)があるんだなあ」と楽しんで参加できた。

前置きはそれぐらいにして内容に移ろう。本書は2000年にホステスとして働いていたルーシー・ブラックマンさんが殺された事件(そして何ヶ月も死体が見つからず、犯人逮捕にも踏み切れなかった)の詳細な調査記録──だけではなく、東京という都市の奇妙な生態、弁護士と警察のよくわからない習慣など、この事件をとっかかりにして「部分的な日本文化論」のようになっているのが特に興味深い。僕自身はこの事件そのものを本書ではじめて知っても楽しめたぐらいだが、何しろ原題はPeople Who Eat Darkness(闇を食べる人々)とされているように、基本的には事件を追った本でありながらも、そこを起点として話題を展開し、幅広く訴えかける本だ。

この事件、掘れば掘るほど複雑化していくことに面白さがある。警察は事件発生から7ヶ月も死体が発見できなかったのだけど、「実際には手がかりとなる証言も証拠もそれ以前から充分に揃っており、ずっと前から発見できてたんじゃないの?」と噂が立っていたりする。なぜそんなことをするのかといえば、容疑者からの自白(容疑者しか知り得ない情報)を得て、そこからその証言通りに死体を発見すれば裁判などがスムーズにいくからそれを待っていたんじゃないかなどなかなか説得力のある説もある。被害者の父親と妹は行方不明が発覚した後、すぐに日本へやってきて両国家首相まで巻き込む大掛かりな「マスコミ戦略」をとって事件の人々の目を向けさせようと試みる。容疑者と目されている人物は一貫して無罪を主張する──。

とにかく筆者の目からすれば日本には奇妙な習慣や職業がある。たとえば裁判を見比べた時に、日本では刑事被告人の99.85%が有罪宣告を受ける。アメリカやイギリスでは73%でしかないのに。検察に起訴され、裁判になればほぼ有罪というわけだ。だから日本のマスコミも逮捕されると、起訴される前から呼び方がさんや氏から一気に容疑者扱いになる。事実上有罪かどうかは裁判という本来は当事者間論理のすりあわせの場で決まるのではなく、裁判の前に決まっている。自白がとれれば事実上そこで試合終了なので警察はとっとと話を終わらせる為に法律スレスレの恫喝や脅迫、誘導じみた「自白強要」を連発する──。「儀式」と題された章ではまさにお遊戯というか、あらかじめ決まった筋書きをなぞるだけの裁判についての記述がなされていく。

こうしたことに対して我々は違和感は持ちつつも、だいたいは「まあそういうもんだ」と受け入れてしまっているところが大きいだろう。たとえばキャバクラとかホステスとか、何で知らん相手と話して金まで払わなきゃいけないんだと意味がわからないが、好きな人は好きで凄い金を費やしていたりする。「変な人達だなあ」と思いながら観ているけど、改めて英国の人などから「変な人達だなあ」と書かれると「ああやっぱり変な人達なんだなあ」と一つ外部の視点として客観視する起点となる。こういう「欲望が支配する街」的な部分は、下世話な話が続くが表現が面白いので飽きずに読み進めることが出来る。

 東京の公衆電話ボックスはどこも売春を宣伝する安っぽいチラシで覆われていたが、ホステスクラブが提供するのはもっと専門的で、もっと効果なものだった。以外にも料金の高い高級クラブになればなるほど、女性の体へのタッチは厳しく規制される。「ほかの形態の水商売の店では、男性を性的に射精に導くサービスが提供される」とアリスン教授は述べる。「一方のホステスクラブで提供するのは、自我の射精のみである」

「一方のホステスクラブで提供するのは、自我の射精のみである」とかなんかやたらとカッコイイが、やってることはしょうもないのでちぐはぐさに笑ってしまう。このアリスン教授の論考の中でなるほどなと思ったのは、ホステスクラブは日本の会社員にとっては接待の場でもあり、ようは娯楽であって同時に仕事であるってことだ。来店時にすでにサラリーマンは疲れきっているから、自ら機転をきかせてクライアンを接待することだけは避けたいと考えている、だからホステスがその問題を解決する。おだててもらって大人物だと思わせてあげる仕事を代行してもらう場だというわけだ。そう考えるとなるほどなあとは思うけど、接待する側にしろ、される側にしろ、どっちにしろかかわり合いになりたい場所ではない。

ルーシー・ブラックマン事件と、それを取り巻く日本の状況を丁寧におっていくと最後には、「そもそもなぜ、こんな事件が起こってしまったのか。日本人はイギリスなどの白人女性にどのような印象を抱いているのか」という根源的な問いかけに至ることになる。もちろん、「日本人」とくくったって、いろいろいるわけだから、一般化はどのような意味であれ間違いを含んでいるが、本書で著者が至る結論はなかなか興味深い。キイワードを抜き出せば、「安全ではあるが複雑なこの社会」というあたりになるだろう。相手に強い印象を与えたり、威圧するために攻撃的な男らしさを誇示することのある西洋人男性と違って、日本人男性は威張って自慢することなど滅多になく、悪意や脅威とは正反対の場所に留まることが多い──と本書では書かれている(実際はそうでもないように思うが)。

だからこそ、そんな状況に長く置かれると多くの外国人は警戒心が薄れてしまうと。たしかに日本は概ね他の国家と比べると安全な社会ではあるが──しかし別にウルトラマンがボディーガードについているわけではないのだ。危害を及ぼす可能性のある人間はいるし、普通であればしないような「安全性を考えない行動」、たとえば殆ど知らない相手の家へ軽々しく上がり込んで、差し出された飲み物を飲むなど──をすることによって「運悪く」闇に落ちてしまうことも、当然ながらありえると。

著者はザ・タイムズのアジア編集長・東京支局長として活躍を続けながらこの事件にあっては最終的に無期懲役を言い渡された織原城二に名誉毀損で訴えられるなど「単なる外部の人間」というわけでもなくかなりガッツリと長年に渡り事件に関わりを持っている人間である。多少一面的というか、やたらと日本の性質を誇張して(面白くなるように)描写する傾向はあれど、単なる賑やかしの傍観者ではない。

ルーシー・ブラックマン事件の真相だけでなく、日本の警察・検察・裁判機構の構造的な問題を明らかにしホステスやキャバクラの乱舞する不可解な夜の街を臨場感たっぷりに描いせみせた渾身のノンフィクションだ。