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チェコSFのたどった道筋を振り返る──『チェコSF短編小説集』

チェコSF短編小説集 (平凡社ライブラリー お 26-1)

チェコSF短編小説集 (平凡社ライブラリー お 26-1)

『チェコSF短編小説集』である。なぜ突然平凡社からSF、それもチェコの? と疑問に思ったのだが、あとがきをみるに、ちょうどチェコSFに興味がある編訳者がいた(平野清美氏)のに加え、チェコ大使のヤロスラフ・オルシャ・jr氏、チェコSF界の第一人者イヴァン・アダモヴィッチ氏という布陣が組めたのも大きいようだ。

さて、では次なる疑問はそもそもチェコにSFはあるのかだが(SFがない国があるのかというのも謎だが)、もともと〈ロボット〉という言葉の起源はチェコの作家であるカレル・チャペックによって生み出された言葉だし、『チェコでは年間五〇〇冊ものSF・ファンタジー作品が出版されているのだという(その多くは海外ものだが)』というわけで、つまるところSFは当たり前のように存在している。

いうまでもなく、〈ロボット〉という単語もこのくにの作家チャペックの生んだ言葉である。そのわりに作品が邦訳されている作家は、数えるほどしかいない。そこでこの国のSFのたどった道筋を振り返ってみようというのが本書の試みである。

作品選定・配置としては、1912年の古典SFといってい時代の物からだんだん時間が現代に進んでいくように並んでいる(とはいえ、一番新しいものでも2000年のもの)。比較的古めの作品が多いのもあって、SFのネタ的に「これは新しい!」と思うようなものはないが、全体主義物や風刺作品など執筆された当時のチェコの状況を反映させているような作品もあり、「チェコで書かれるSF」や、チェコにはこんな作家がいるんだな〜と、その一部分だけであったとしても概観する楽しみがある。

作家の概略もつかめる

作家陣には、カレル・チャペックのような日本ですでに紹介のある作家も数人いるが、ほとんどの作家は本邦初紹介であり、その作家の背景や文脈といったものが(チェコという国がどのような状態にあった時に書かれた作品などが)、こちらとしてはさっぱりわからないのだが、先に書いたように作家ごとにイヴァン・アダモヴィッチの解説が付されており、まずその時点でたいへん読み応えがあるのが素晴らしい。

たとえば最初に収録されているのは、ヤロスラフ・ハシェクの短篇作品「オーストリアの税関」(1912)。これは、事故にあってぺしゃんこになった身体を、そこらへんの人工物をバラバラに繋ぎ合わせて復元された語り手が、下記引用部のようにオーストリアの税関でめちゃくちゃなチェックを受ける笑いのこみあげてくる小品である。

税関管理官はきわめて几帳面で、職務に忠実なお方だった。証明書に目を通すと、こういった。「まずですね、証明書によると後頭部の頭蓋骨の代わりに銀のコンロの天板を使っていますね。純度検証極印がありませんから、一二コルナの罰金を払わなければなりません。銀は一二〇グラムで、純度検証極印のないのを承知で運び込もうとしたわけですから、関税規定九四六条の税率VIと税率VIIIbに基づいて、罰金は三倍になります。」

アダモヴィッチ氏によるとハシェクはユーモア短篇ジャンルに分類される短篇を多く手がけ、SFモチーフも多かったと言うが、その目的の一つは当時の状況を風刺するためだったようだ。『つまり、本作「オーストリアの税関」も、今日の言葉を使えば、初期のサイボーグの話と名付けることができるかもしれないが、むしろこれは自由な貿易を制限した当時の関税規定に対するハシェクの生の反応なのである。』というように、きっちり解説が入ってくるので、背景もあわせて楽しめるのだ。

ざっと紹介する

続くヤン・バルダ「再教育された人々──未来の小説」(1938)はアダモヴィッチ氏に『チェコのSFが誇る小さな宝である』と紹介される作家の作品で、近未来の社会主義国が支配的になった世界を舞台とし、子どもは養育施設で思想的な教育を受け、今やほとんどの人間はそうとも気づかずに隷属的な立場に置かれている位状況を描き出していく。次はカレル・チャペックによる「大洪水」(1938)。地球に雨が四十日四十夜降り続け、水位が上昇し人類は滅亡したが、実はまったく洪水を気にせず生き残っていた人物がいた──というユーモラスな一篇。ちなみに未邦訳の作品らしい。

なんでもオートで作り上げることができる自動化システムを開発した天才研究者が、慢心・増長してすべてを求めるが──の顛末を描くヨゼフ・ネスヴァドバ「裏目に出た発明」(1960)。なぜか犬に脳が移植されてしまったとみられる教授が、犬としての生活をおくっていくうちに彼に何があったのか、また彼の望みは何なのかが次第に明らかになっていく、ヤロスラフ・ヴァイス「オオカミ男」(1976年)あたりはネタとしては古風だが調理の仕方が好み。犬が新聞を読んでいる時の飼い主の反応とか。

全体主義物としては、エヴァ・ハウゼロヴァー「わがアゴニーにて」(1988)がたいへんおもしろい。アゴニーと呼ばれる家母長制のミニ国家のような場所(クランと呼ばれる)場所で暮らす人物を通して、執拗に村社会的な悪意を描き出していく。自分たちのクランを批判するものは許さず、公に罰するのではなく治療を受けさせないなどの手段によってじわじわと追い詰めていく。クランに住む人たちは自分の住む場所が素晴らしいところだと語るが、そこから離れた先進的で自由でエリートの集うコスモポリタンの人間からみると退廃的で不自由な生活を送っている人々でしかない。

コスモポリタンに憧れ、クランの陰湿な部分に嫌気がさしながらもクランの日々を捨てきれない──そこでの生活では想像できないものはなにもなく、人々はルールを守り、周囲の人間はみな顔見知りで、一人になることはなにもないのだから──そんな一人の女性の葛藤がこれでもかというほど描きこまれていくのが素晴らしい。

ラストの三作は、地球外文明から送られてきた、銀河系の星と惑星間の宇宙追い抜きレース──ゴール=月! の招待状を受け取ったケネディというトンデモ設定で綴られるパヴェル・コサチーク「クレー射撃にみたてた月旅行」(1989)。火星探査中に行方不明になったメル・ノートンは、「ブラッドベリの影につかまった」と言い残していた……という導入の、スタニスワフ・レム&ブラッドベリリスペクトのフランシチェク・ノヴォトニー「ブラッドベリの影」(1989)。

タイムトラベル技術が実用化された世界で撮られた写真作品をめぐる復讐劇オンドジェイ・ネフ「終わりよければすべてよし」(2000)は道中は胸糞極まりないが、まさにそのタイトル通り最後はすかっと気持ちよく本アンソロジーを締める逸品だ。

おわりに

当たり前だけれどもこれを読むとチェコにもおもしろいSF作品・作家っていっぱいいるんだな〜〜と感嘆しきり。国や文化の縛りからいくらでも自由になれるところも(もちろん人間が書いているから限界はあるけど)小説のおもしろさだけれども、やはりその国特有の、お国柄のようなものを見出すおもしろさもあり、本書をきっかけとしてチェコSFの気運が盛り上がってくれないかと思う次第である。