基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

幻のように揺らめき続ける、汚らしくも美しい街──『黄泥街』

黄泥街 (白水Uブックス)

黄泥街 (白水Uブックス)

中国の作家、残雪の第一長篇の復刊版である。最近、SFファン交流会というイベントの、文学を語ろうの回で、牧眞司さんが『黄泥街』を特に話題にしたい本の中の一冊として取り上げていたのだが、その時から読んでみたいと思っていたのであった。まず、この黄泥街──こうでいがいという書名の時点でそそられるものがあるしね。

で、読んでみたわけだけれども、これはわかっていたこととはいえ大変に素晴らしい逸品である。黄泥街とは長く一本の通りで、いつも空から真っ黒な灰が降ってくる、薄汚い街のことであり、本書はそこで暮らす気が狂った人々の物語なのだが、そうした単純な総括を明確に拒む作品である。この作品が何なのか、黄泥街とは実際何なのか、という説明をしようと思ったらこの本をそのまま手渡す他ない──優れた文学作品とはだいたいそのようなものなのだけれども、本作もそうした流れに連なる。

黄泥街

黄泥街とはなんなのか、そこで暮らす人々はどのように気が狂っているのか。それは常に移ろい続けてゆく幻のようなもので、一つの形にとどまるということがないのだが、描写されていく事態はいくつかある。たとえば、黄泥街では常に灰が降っているので道行く者はみな何かを探して灰よけにしなければならないし、たいていただれた赤い眼をして、咳をしている。さらには、動物たちの気もみな狂っているという。

 黄泥街の動物はやたらに気が狂う。猫も犬も飼っているうちに狂ってしまい、めったやたらに走り回って手あたりしだい人に噛みつく。だから猫や犬が狂うたびに、人々は戸を閉めきって家にたてこもり、通りに出ようとしない。ところがあの畜生ときたら、思いもよらない場所から跳びだしてきて凶行に及ぶのだ。一度など、一匹の狂犬が一度にふたりをかみ殺したものだ。そのふたりはちょうど脚をくっつけて並んで立っていたのだ。

常に灰が降り注ぎやたらと動物の気が狂う汚らしい街になぜ住んでいるんだこいつらは。とっとと出ていけばいいのにとさっそく疑問が湧いてくるが、黄泥街の住民のほとんどはみなそこで生まれ育った者たちであり、どうも出ていくという発想がとんと湧いてこないらしい。それ以前の問題として、黄泥街住民の気が触れたとしか思えない行動がこのあと連続していくのでとんと気にならなくなってしまう。

黄泥街の住民はしかしてどのように暮らしているのか? なんでも黄泥街のつきあたりにはS機械工場が立っているという。S機械工場は5、600の従業員がおり、その大半が黄泥街の住民である。S機械工場が何を作っているのかといえば「鉄の玉」だという。半月ごとに数十箱の黒々した物が運び出されていく。それはなんなのか。S機械工場はどのような経緯で出来たのか。その沿革は誰にも説明できないという。

王子光

全てが曖昧模糊としているこの黄泥街だが、中でも状況を一変させるのは「王子光(ワンツーコアン)」と呼ばれる「何か」である。何かというのは、それがいったい何なのか、誰にもわからないからである。「人間である」と人々が認識していることが多いようだが、結局それを観たものはいないとされ、なんなのかはわからない。それは街の住人が突如「王子光!?」と叫んだときに生まれたのは確かであり、その後またある者が『「王子光のイメージはわれら黄泥街住人の理想なのだ。今後、生活は大いに様変わりする」』と予言したことで、状況が大きく変わっていくのである。

ある噂によれば、王子光は王四麻の弟だという。ある者は王子光は実際にいるのか、「上部」から派遣されて黄泥街にきたことがあるというが実際にはそれはただの乞食だったのではないか。懐疑的な人間もこのようにいるにはいるが、王子光は黄泥街に来たとき黒いかばんを持っていた、王子光は上部の人間ではなく、廃品回収所の屑屋だったなど、噂は噂を呼びその存在感は街の中で少しずつ確かさを増していく。

 もしも王子光のこうした事件がなかったならば、われらが黄泥街は永遠に光なき薄暗い通り、永遠に命なき死の通りでありつづけたかもしれず、永遠に暗く黄色い小さな太陽にひっそりと照らされたまま、記憶にとどめられるようなささやかな出来事も起こらず、世を驚かす一、二の大英雄など出ようがなかったのかもしれない。ところが斉婆が便所のかたすみで、かの太陽と冬の茅の境地に入った一瞬以来、黄泥街のすべては変わったのである。ちっぽけなぼろ家はうごめきだし、陽光の下で一種異様な勃々たる生気を放った。いまわの際のつかの間の照り返しのごとく。屋根の枯草は道ゆく者にしきりにうなずいてみせ、まるで内部に生命のエキスでも注ぎこまれたようだった。黄泥街は生まれかわった。

終末のヴィジョン

僕が読んでいて強く惹きつけられたのは黄泥街にまつわる、混沌とした終末のヴィジョン、汚らしく破滅的でありながらも美しさを感じさせる描写、行動の数々である。

彗星が地球に衝突しようとしている、世界最後の日が来るのだという”うわさ”が流れれば、住民は屋根裏でうまいものを食い荒らし、一日でも生き永らえようと行動を開始する。『通りを隔て、黄色い水を隔てて、糞を垂れながら足踏み鳴らして罵り、罵りながらズボンをひっぱりあげる。悪態ついて興に乗れば、おまるいっぱいの糞をむかいの屋根裏めがけてぴしゃりと浴びせかけ、むかいの者ももちろんおまつひとつでお返しをする。糞は相手にとどきはしないが、まあ、単なる景気づけなのだ。』

ある時は、真っ黒な墨汁のような雨が振り続け、百足は際限なく湧き、逆に太陽が出るとあらゆるものが鎖腐乱死体が吸い上げポンプにつまりある人物は耳が夜の間に腐ったという。またある時は街じゅうが疫病になりニワトリが死に絶え床には水がたまり壁一面にナメクジがはい毒蛇の卵が産み付けられ、街には大蝙蝠と毒が蔓延していく──話が進行していくうちに、そのどこまでが真実で、どれが住民によって流されたうわさなのかの区別もつかなくなっていき、すべては夢の中の出来事であるように圧倒的な混沌へと向かっていく──『黄泥街は果てしない夢からぬけだせない。』

おわりに

さっきまで生きていた人間がころっと死んでしまう。さっきまで描写されていた人物の実在が危ぶまれる。すべては虚構だが、虚構のレベルが揺らぎ続ける。誰かがつぶやいた何気ない一言が別の誰かによって増幅、真相として扱われ、あれよあれよというまに恐慌が街全体を覆っていく。登場人物の会話はいかにも噛み合っているように進行するが、まったく噛み合っていないどころか最初と最後でまるで別のことについて語っていたりする。幻惑、幻想的な作品であるといえばそうだが、ある意味これこそが──きっちりとはしていない状態であることこそが、現実ともいえるのだろう。

まあ、なにはともあれおもしろい、美しい街である。本を一冊買うだけで、街をまるごと手のなかに収められるのだから、小説というのはおもしろい。