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全人類が記憶を喪失し、地面がバラバラに砕け空中に散らばった世界──『落下世界』

落下世界 上 (創元SF文庫)

落下世界 上 (創元SF文庫)

落下世界 下 (創元SF文庫)

落下世界 下 (創元SF文庫)

空中に浮いている島へ向かって落ちていく人間のヴィジュアルが圧倒的なこの『落下世界(上・下)』だが、その中身ときたらけっこうとんでもなくバカ寄りの奇想SFで、いやいくらなんでもそりゃ無茶じゃろ、とツッコミを入れ始めたらキリがないのだが、「その中心に流れる情景・マインドやよし!!」と全力で擁護したくなるような作品である。著者ウィル・マッキントッシュは2010年に"Bridesicle"でヒューゴー賞短編部門も受賞している作家で、本作も入れて全部で9つの長篇がある。

さて、全人類が記憶を喪失し、地面がバラバラに砕け空中に散らばった世界とはいったいなんなのかといえば、そのままの世界である。物語は一人の男の視点から始まるのだが、当然ながら記憶喪失しているので自分が誰なのか、名前すらもわからない。それどころか、周りの人間も誰も自分が誰なのかわかっていない。それだけでも大変なことだが、ちょっと道を歩くとなんと「世界の端っこ」がある。地面がなく、建物がひとつもなく、あるのは空ばかり。下を見ても空しかない。世界の絶壁である。

つまり彼らがいるのは、どうやら空中に浮かんだ島のようなもの(端から端まで、歩いて30分ぐらいしかかからない)なのである。名前は忘れても常識的な感覚は残っているようなので、それがおかしいというのはなんとなくわかるようだが、なぜおかしいのかわからない。名前なき語り手は、何しろ記憶がないわけだから目的もなければ今日の予定もないわけで、とりあえずポケットに入っていた写真にうつっていた黒髪の女性を探すことになるのだが──と、行動を開始することになる。

いったいこの世界はなんなのか。

探すとはいえ、そのまえに人間は飯を食わねば生きていけない。で、先進国にすんでいる人間であれば金がなくともなんとか飯を食う手段ぐらいあるもんだが、何しろここは小さな島世界なのである。店にあった食品はあっという間に何者かに持っていかれ、自販機なども荒らされている。通常であれば食物はどこかで栽培してそこから運ばれてくるはずだが、そういうものはない。つまり、食糧生産は不可能で、既存の食料も減っていっているのであり、目に見えているのは全員餓死という破滅である。

そこで何が行われるのかと言えば、口減らしである。まず銃を持った勢力が暴力を駆使して子どもたちを銃殺し、殺し合いがはじまるのだが──後にフォーラー(飛び下り屋)と名乗り始める語り手は、小さな徒党を組み、さらには記憶喪失がはじまった時に持っていたもの、血で書かれた複数の字形と、玩具のパラシュートの理由を考え、この世界に何が起きたのかを突き止めようとする。とはいっても、この小さな世界はあっという間に探検し終わってしまうから、やることはひとつしかない。

本物のパラシュートを背負って、下がまったく見えない空の中へと飛び込んでいくしかないのだ。で、彼は下へ下へ、寝て起きて、何日も経過しながら落ちていく。どんだけ高いねん、というか気圧とかどうなっとんねん、と思わずにはいられないが落ちていって、このまま落ち続けて死体はどうなるんだ? とか考え始めるのだが、ある時下方に“まったく別の世界”を発見するのである。彼はそこにパラシュートで着陸するが、そこも彼がやってきた世界とそう大差ないぐらいに貧しくて、人々が争い合っていて──と、ここでも決死のサバイバルが繰り返されることになる。

どうなっとんねん

このあたりまででまだ上巻の30%ぐらいで、この世界には1.複数の世界、少なくとも2つは世界がある。2.さらにフォーラーは、2つ目の世界で、1つ目の世界で親しかった女性とまったく同じ外見をした別の女性を見つける。なぜ同じ見た目をした女性がいるのか? 双子なのか、偶然なのか。3.2つ目の世界の住人もみな同じタイミングで記憶を失っている。といった事実や疑問が明らかになっている。

普通に考えたらなんでこんなことになっているのかまったくわからないのだが、実は本作はそうしたフォーラーの世界探検記と交互に、こうした世界に至った道筋をたどる研究者らのパートが挟まれていくのである。そちらによると、どうも世界は紛争の中にあり、特にロシアはきわめて致死率の高い病原菌をインドにばらまいたという。で、その病原菌への対抗策も存在しているのだが、なぜかそれは〈記憶に悪影響をおよぼす〉、記憶を消し去り学習記憶にもダメージを与えるのだという。

つまり、空中に浮かぶ小島の人々がみな記憶喪失になっているのは、おそらくその対抗策がばらまかれたせいだろう、と話のかなり早い段階で検討がつく。また、未完成ながらもデュプリケーターと呼ばれる細胞の複製機も出てくるので、同じ見た目をした人々が恐らくはクローンのようなものであることも同時に検討がつく。しかし、なぜ世界がこんなふうにばらばらになって、しかも空中に浮いているかはわからず、それがフックとなってこの「過去の研究者パート」が進んでいくことになる。

おわりに

まあ、世界が浮かんでいる理由には、「バカにしてんのか!」みたいな理屈しかつかないんだけど……。世界を何日もかけて落ちていく情景の描写。新しい世界を探検し、「世界は本当はこんな形だったんだ!」と世界認識が拡張され、次なる未知を目指して旅をするフォーラーの旅は、SFの醍醐味に満ちていて、しかもそれが何度も味わえる(フォーラーは何度も落下を繰り返し、仲間を増やし別の世界へと向かう)ので、奇想の冒険SF、あるいはファンタジィとして一貫して楽しませてくれる。

複製された人間周りは、自己の同一性であったり、私が愛しているのはどちら問題であったりに繋がってくるが、まあそこまで洗練された要素ではない。