基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

自由は国家の成立過程の中で、どのように獲得されるのか──『自由の命運:国家、社会、そして狭い回廊』

この『自由の命運 : 国家、社会、そして狭い回廊』は、『国家はなぜ衰退するのか』で、豊かな国と貧しい国の分かれ目となるのは、国の中にある政治・経済上の「制度」なのだ、と膨大な国の歴史・発展過程を計量的な実証研究を通して導き出していったダロン・アセモグルアンドジェイムズ・A・ロビンソンによる最新作である。

本作においてテーマになっているのは、書名にも入っているように「自由」だ。自由の定義にはイギリスの哲学者ジョン・ロックによるものが用いられ、それは端的に示せば「他人に許可を求めたり他人の意志に頼ったりすること無しに行動することができる」ことであるが──今の世界を見渡してみればわかるように、自由が保たれている状態は稀である。自由以前の問題に中東やアフリカのように暴力と恐怖から逃れるために土地を追われるものたちもいる。先進国であっても人種、性に対する差別ははびこっている。だが、確かに世界は自由に向かって歩んでいるようにみえる。

であれば、その理由は何なのか。国家の、社会の、どのような要素が自由を獲得するために必要なのか。『本書は自由について、また人間社会がどのようにして、なぜ自由を獲得できたか、できなかったのかについての本である』というように、前作の論を引き継ぎ、さらに発展させながら、人間社会がどのようにして今のような「自由」を獲得するに至ったのか。また、その自由を獲得するために必要な社会の、国家の行動は何なのか、その条件は──をババーンと提示してみせる、前作以上に壮大で緻密なノンフィクションである。上下巻あわせて800ページの大著なのだけれども、ワクワクがとまらずに飽きずに読み切らせてもらった(さすがに読むのに3日かかった)。

国家と社会のせめぎあいが自由の回廊を作り出す。

主張は『国家はなぜ衰退するのか』から引き続き明快である。まず、ひとつには自由には国家と法律が必要である。だが、国家と法律があればそれで十分ということではない。自由は一般の人々の活動、つまりは社会によって与えられるのである。だから、必要なのは国家、そしてそれを監視する社会の力の均衡なのだ。

 本書の主張は、自由が生まれ栄えるためには、国家と社会がともに強くなければならない、というものだ。暴力を抑制し、法を執行し、また人々が自由に選んだ道を追求できるような生活に不可欠な公共サービスを提供するには、強い国家が必要だ。強い国家を制御し、それに足枷をはめるには、結集した強い社会が必要だ。ドッペルゲンガー的解決策や抑制と均衡では、ギルガメシュ問題を解決することはできない。社会のたえざる警戒がなければ、どんな憲法も保証も、それが書かれた羊皮紙ほどの価値しかもたなくなるからだ。

本書では、そうした前提・主張を置いて、国家の力を縦軸。社会の力を横軸において、その両者の力の釣り合いがとれる中央のゾーン「自由への狭い回廊」にとどまらなければ自由を得られないとのべていく。ここで重要なのは、「共に発展」するだけではなく「均衡」が保たれることだ。国家の力が強くなりすぎれば専横国家の道を進み、国家の力が弱い、あるいは不在になれば社会は暴力や無秩序に晒される。

そこからどのように脱出し、真ん中の回廊にたどり着けば良いのだろうか? 専横国家状態であったって、革命をして政権をぶっ倒せば良いんでしょ? という簡単な話ではない。『これが扉ではなく回廊である理由は、自由の実現が点ではなくプロセスだからだ』というように、『この回廊が狭い理由は、こうしたことが容易ではないからだ。巨大な官僚機構と強力な群体、法律を自由に家挺する権限をもつ国家を、どうやって抑え込めるだろう? 複雑化するこの世界でますます大きな責任を担うことが求められる国家を、どうやって手なずけ、制御し続けることができるだろう?』

「回廊」の大きさもまた変わり得る。たとえば、「国家」というシステムへの市民の信頼感がなければ、そもそも国家が成立しえない。長らく不安定な状態に置かれた国では国家への信頼が地に伏しており、ただでさえ小さい回廊はさらに狭まっている。

『リヴァイアサン』の先へ

ホッブズによる『リヴァイアサン』では、人間が自然権を行使しあうむき出しの状態では紛争が避けられず、「万人の万人に対する闘争」の状態に陥ると言い表し、そこから抜け出るために国家でありリヴァイアサンと呼ばれる「共通の権力」をかつがねばならぬとした。本書では、このホッブズの考えに大きく二つの補足を行っていく。

一つは、実は国家なき社会にあっても部族的規範や宗教的規範が紛争を食い止める(こともある)ことがわかっていること。だが、それは規範という超越的なルールを押し付けることで不平等な社会的関係が蔓延し(インドのカースト制度や、サウジアラビアにおける専横的な権力と宗教的な規範のあわせ技など)、別の支配になっているだけだ。もう一つは、国家は無条件でいいものではなく、紛争や災害をもたらすこともあること。中国では1950年代末から60年代前半にかけて、4500万人が餓死した大飢饉に襲われた。これは国家の不在ではなく、むしろ計画によってもたされた。

ホッブズはすべての人を畏怖状態に留めるような共通の権力がないとき、人生が孤独で貧困で過酷で野蛮なものになるといったが、暴走した「共通の権力」はより悪化した状態を人々にもたらすのである。

おわりに

国家不在の規範が支配する社会を「不在のリヴァイアサン」。社会の警戒が機能せず国家の暴走が起きる独裁国家のことを「専横のリヴァイアサン」。中央の回廊にいる国家のことを「足枷のリヴァイアサン」とそれぞれ本書では名付けているが、ここから本書では、国家と社会のせめぎあいでどのようにしてその3つの間を行き来していくのか、国家に対して社会の側が行使する・すべき力とは何なのだろうか? などのより具体的な国家の自由の獲得、または喪失過程の記述が続くことになる。

繰り返し「狭い」回廊と表現されるように、自由の状態は不安定で、たやすく転がり落ちてしまうものだ。「社会の力」とは一つには政治への参画度合いであり、投票率が下落傾向にある日本も国家の力が増し専横のリヴァイアサン状態へと近づきつつあるといえるのかもしれない。少なくとも、歴史的には安定的に見えた国家が突然独裁へと向かう、または突然国家として機能しなくなるケースは幾度も起こっている。

ペルーでは1992年、民主的抑制を緩めるために憲法停止と議会解散に踏みきって新選挙を実施した。民衆はなぜそれを受け入れたのか? これは左派の伝統的エリートに対抗するためだと主張したのだ。それはウソではないが実際には権力の掌握が目的だった。同様の事象はベネズエラ(1998年、ウゴ・チャベスの権力掌握)、エクアドル(2007年、ラファエル・コレアの権力掌握)、もちろんナチ党など……。日本に限らず、アメリカだろうがイギリスだろうが、とても「自由」とはこの先も保証されたものではないと、「自由」の難しさを知ることで強い危機感を覚えるだろう。

膨大な歴史記述を通して「国家がどのようにして自由を獲得、もしくは失ったのか」がくっきりと見えてくる。様々な国家の形が描き出されていくのに対して「社会」の持つ力とは何なのか、といった部分が断片的になってしまっている印象はあるが、それは本書が『国家はなぜ〜』の発展であるように、また別の著作で語ってくれるのではないかと思う。