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もしもヴァンパイアが大英帝国を統治したら──『ドラキュラ紀元一八八八』

ドラキュラ紀元一八八八

ドラキュラ紀元一八八八

キム・ニューマン『ドラキュラ紀元一八八八』は東京創元社の『ドラキュラ紀元』の増補&改訳版。映画シナリオや世界観を補完する短篇が収録され、完全版といえる出来。もともと読んだことがなく値段が4000円近くする本なのでおもしろくあってくれ! と祈りながら読んだのだけど、これがもうめちゃくちゃおもしろい! 台詞の一つ一つが痺れるほどにカッコよく、無尽蔵に投入されるフィクション&歴史上のキャラクタが織りなす1888年の改変世界はどこに目をやっても魅力が横溢している。

原典たる『吸血鬼ドラキュラ』では、吸血鬼であるドラキュラをヴァン・ヘルシングが追い詰め殺してしまうわけだが、この『ドラキュラ紀元一八八八』世界では逆にドラキュラがヴァン・ヘルシングに勝利し、イギリスの事実上の統治に成功。そうすると当然ながら吸血鬼たちが力を持ち人間と共存する世界が生まれるわけで──。本書では、仮初の均衡が保たれている1888年を舞台に、そこに現れた”吸血鬼殺し”の連続殺人鬼である”切り裂きジャック”事件を追う形でストーリーが展開していく。

ヴァン・ヘルシングは英国におけるドラキュラの計画を、「生命ではなく死に通じる、存在の新たなる様相の父、もしくはそれ以上のもの」になることであると語っている。(……)ヴァン・ヘルシングと恐れ知らずのヴァンパイア・ハンターの一行が敗北し、ドラキュラが「新たなる様相の父、もしくはそれ以上のもの」になることを許されていたなら、英国は、世界は、どのようになっていたか。それはじつに興味深い、探索する価値のある問題と思えた。(あとがきより)

その上、ここではヴァンパイアが跳梁跋扈しているんだから当然だと言わんばかりに様々なフィクション上のキャラクタがその姿を現し、この世界を賑やかにしていくのだ。たとえばドクター・ジキルは本作で重要な立ち位置を占めるし、シャーロック・ホームズの登場人物たちも出てくる。もっとも、ホームズ本人はこいつがいたらあっという間に事件を解決してしまうに違いないので、物語開始そうそう政府といさかいを起こして強制収容所に入れられており、その出番を奪われているのだが──。

底知れぬほど魅力的なこの世界観よ

というわけでここらあたりから具体的な紹介をしていこうと思うが、何といってもまず魅力的なのはその世界観よ。ドラキュラがイギリスのトップに君臨した世界という単純な仮定をおくことで、市民の多くは吸血鬼へと転化していき、人間──作中では”温血者”と呼称され、そこからドラキュラへと転化したものは”新生者”と呼称され、”誰の”血統によって吸血鬼化したかによってその能力や格が決まってくる。

吸血鬼に統治されていて誰でも吸血鬼になって不死になれるんだったらみんな吸血鬼になるんじゃね? と思いきやこの世界の吸血鬼にはけっこうたくさんの罠がある。たとえば血統で受け継がれる能力は霧になれたり変身能力だったりとさまざまだが、中には有害な特徴も含まれており、問題の多い血統は蔑まれもする。新生者の多くは不死者となるどころか人間だった時本来の寿命以上に生きることは稀である。その上夜に活動できなくなるのだから、そこまで凄まじいメリットがあるわけでもない。

中国で言うところの跳ねる死体のキョンシーも吸血鬼の中に含められていたり、”転化”の科学的な作用について科学者らによる議論が始まったり、様々な角度からろくに説明もないままに設定が披露されていくので、最初のうちは大いに混乱しながらも「うわーなんだこの世界はー! たーのしいいー」と興奮が増していくのである。さらには当然ながら”新生者”間の蔑み合い、温血者と吸血鬼間の対立、温血者と吸血鬼の間の果たされぬ愛が、吸血鬼を殺して回る”切り裂きジャック事件”と並行して進み、読み進める度に世界観の広がり&深みが理解されてくるのだ。

 未知の狂人の所業に対する無力さを自覚するにつれて、この事件のもたらす影響の大きさが少しずつ理解されてくる。議論をはじめるにあたって、誰もがまず、これは三人の娼婦が惨殺されただけの事件ではないと断言する。問題はそして、ディズレイリの、”ふたつの国民”理論に、下層階級にヴァンピリズムが蔓延していく遺憾な状況に、公的秩序の衰退に、変質した王国の危うい均衡に、移行していく。この殺人事件は単なる火花にすぎないが、大英帝国は火口箱なのだ。

あらすじ的なアレ

本作は、15世紀の生まれながらも見た目は16歳の(たぶん)美少女とかいう属性の塊みたいなジュヌヴィエーヴ・サンドリン・ド・リール・デュドネと、彼女と一緒に切り裂きジャックを追う”人間として生き続けることを選んだ”チャールズ・ボウルガードを中心にして展開する。とはいえ、短く区切られた章毎に視点も題材も代わり、とある章ではホームズの宿敵であるあの教授が出てくるし、とある章ではビリー・ザ・キッドが吸血鬼を撃ち抜いた逸話が語られ──と、群像劇的なおもしろさがある。

さらには、”切り裂きジャック”の物語としては本書単体で驚くほど綺麗に(意外な、しかしとてつもなく説得力のある犯人、その動機の暴露など)完結するが、このドラキュラ紀元世界はまだまだ二巻三巻と続いていき、その為の布石がいくつも打たれていく点も素晴らしい。たとえば国家の中心はヴァンパイアへと移行しつつあり、昇進は”ふさわしい”とされるヴァンパイアのみに限定される。さらには、夜の世界と昼間の世界で一応の住み分けが出来ていたにも関わらず、昼間の世界をもヴァンパイアたちが支配するようになり──と、すべての事態は急速に進行していくことになる。

そうした事態が切り裂きジャック事件と同時に語られていくのもうまい! なにしろ普通は殺せないと思われていたヴァンパイアをいともたやすく(かどうかはともかく)殺せる何者かが出てきたことによって、インドなど世界的に反ヴァンパイアの気勢が高まっていくのだ。果たして人類vsヴァンパイアの行末はどこに──!?

圧巻の描写力

引用部などで若干伝わっているといいのだが、この作品、とにかく描写一つ一つが素晴らしい。時に官能的であり、時に科学的であり、時に決断的であり、時に見事な演説であり、台詞も描写もどこを切り取っても絶品というほかない。『いや。良いことはひとりでに終わるが、悪いことは終わらせなくては終わらないものだ。』とか一息の台詞だけでもどれもいいが、中でもぐっとくるのはやっぱり吸血鬼物の魅力の一つである吸血シーン。これはねー全部引用したいぐらいだけど、どこも最高ですねー。

 氷の針が衝撃をもたらす。彼は一瞬、彼女の身体の内側に、心の中に入りこんでいた。脅威的な広大さ。彼女の記憶がはるかな銀河を旅する恒星のように、ほの暗い彼方に遠ざかっていく。彼女の内部でうごめく自分、彼女の舌で味わう自分の血が感じられる。そして身ぶるいとともに、彼は自分自身にもどった。

おわりに

と、そんな感じでめちゃくちゃおもしろかったです。二巻、三巻もアトリエサードから中篇などのおまけつきで出してくれるようなのだけど、こんだけおもしろいと待ちきれなくて東京創元社版を中古で買いたくなっちゃうな……さすがに待つけれども。

あと、登場人物時点とか著者自身によるいくらかの元ネタ解説とかが充実しているので、あんまり詳しくないやーって言う人にもオススメ。