基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

電子生命の生きる道はどこにあるのか──『キャサリンはどのように子供を産んだのか?』

講談社タイガで刊行中の、森博嗣によるWWシリーズ『それでもデミアンは一人なのか?』に次ぐ第三巻である。(今作に限らず)独立性の高い作品なので、どこから読み始めても問題はない。このシリーズでは、人工的に作られた有機生命体であるウォーカロンが存在し、人間はいくつかの事情から子供がほぼ生まれなくなった。その一方で寿命はのび、ひどい事故以外では死ななくなった未来の世界を描き出していく。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp

世界観とか

このシリーズの特徴は、ヴァーチャルの比重が増し、リアルが縮小していく世界を描き出している点にある。現代でも多くの人がVR機器を楽しんでいるが、このWWWシリーズでのVR──というか電子世界の重要性はそのはるか先をいっている。

現代では誰であってもVRの世界を現実と見間違えたりしないが、結局のところそれはVR空間での情報量がリアルのそれと比べて圧倒的に劣るからだ。音、感覚、臭い、それから視覚の情報量が現実以上になれば、人は容易にはそこが仮想空間だとは気づけない。この世界でのVR空間は、だんだんとその状態に近づいていっている。

そもそも、世界の運用の多くが人間ではなく人工知能による演算にゆだねられているし、肉体を人工細胞によって置き換えることでいくらでも寿命を延ばすことができ、死と生、人間と非人間の定義が、ぼやけて曖昧になっていっている。それは、要するに揺るぎない「リアル」という土台が、次第に縮小しつつあるということだ。

あらすじとか

今作で焦点があたるのは、そんな世界で起こったキャサリン・クーパという女性研究者の行方不明事件だ。なんでも、彼女は国家反逆罪に問われており、自身の研究所を出ること許されていない。そのため、失踪当日も自身の研究所にいたが、そこへ公的機関のものが8人訪れ、そこから何らかの理由で全員が消えてしまったという。

普通に考えたらただ結託して出ていったのか、行方をくらましただけでしょう、ということになるのだが、クーパ博士は持病持ちで、研究所にある特殊な無菌室の中にいなければ長期の生存が困難だという。さらには、建物の情報からは一切出ていった痕跡が出ていない。つまりは、密室殺人事件というか、密室失踪事件のようなものである。無論、いくつもの可能性が考えられる。何らかの形で建物の監視を逃れたか、はたまた、9人全員が痕跡も残さぬようその場で殺されたのか(溶かしたとか)。

研究室には、そうしたことを可能にする設備はあったという。だが、そもそもなぜ彼女は消えなければならなかった(あるいは、消された)のか。それを追っていくうちに、クーパ博士が実現したとされる「一人での出産」技術と、それをめぐる電子世界勢力との争いが描かれていくことになる。SFならではの世界認識と、問いかけそれ自体が謎解きに関連してくるタイプのSFミステリィとしても突出しているが、同時にひたむきで愚直な研究者についての物語としての側面も色濃く出ていて、『喜嶋先生の静かな世界』を読んだ時のような、理論を追い続ける美しさに触れたように思う。

電子生命の生きる道はどこにあるのか

SFが未来を描き出す時に、単純化すればその方向性は大きく二つある。一つは、小川一水的な、人類が宇宙へ広く伝播し、異星の知性やまだみぬ惑星をみて広まっていくような物理宇宙で拡散していくタイプ。もう一つは仮想世界が広く展開し、多くの人がそこで暮らしたり、知性をそこにアップロードするような本作に近いタイプ。

後者はそうした状態をとりながら無数の惑星に分かれているケースも多いから、大きな二つの方向性は分断されているわけではないが、僕の個人的な未来観は後者に近い。火星ぐらいにはいけるだろうが、この先少なくとも50年以上に渡って人口はどんどん減っていくことがわかっているし、果てしない宇宙を探索し移住するよりかは、人口を少なくおさえつつ、パラメータを好きに決められる仮想世界に閉じこもる方が、資源も必要としないし、エネルギー効率的な観点からいえば優れている。

そうなってくると気になるのは電子世界ではどのような生活を送ることになるのかだ。WWシリーズでは、その辺は今まさにゆるやかな移行が描かれている最中である。対面のMTGがリモートMTGになり、それが次第にVRでのMTGになるように、生活の、リアルの一部分が徐々に仮想へと置き換わっていく。我々の世界でのVRも今ゲームが多く出ているが、それらも基本は現実を模倣したものだ。その場合、最初に訪れる電子生命・電子知性の日常というのは、現実と変わりがないものになる。

だが、仮想は仮想なので、リアルに縛られる必要はない。自由に、離れられる。そうであれば、電子世界は、電子の世界での生命は、その先にどのような道をとるのだろうか。というのが、ざっくりいえば本作における中心的な問いかけになる。これは、リアルに縛られている我々人類にとっては、想像が難しい問いかけだ。

おわりに

森博嗣さんの本ではいつもある各章冒頭の引用、今回はグレッグ・イーガン『ディアスポラ』が用いられている。この作品では、ほとんどの知性が電子世界上のものになっている未来の世界を舞台に、わずかに残った、あえて肉体で生きることを選択した人々や、仮想世界上の存在である人工知性が、物理宇宙の探索に出向く宇宙探索プロジェクト「ディアスポラ」であったりが描かれていく。「電子生命は何をするのか」という、WWシリーズの問いかけのはるか先を描き出した作品といえるだろう。

電子生命は、自分の精神のパラメータを自由に変更できる(何に価値を感じ、楽しいと感じるのかを自由にいじれる)ので、リアルな肉体を持つ我々の芸術や美学といったものは、もはやなんの意味ももたなくなっている。死も生も、楽しみも悲しみも、あらゆる状態・価値基準がどのようにでもなるというのであれば、その時電子生命はどこによりどころを求めるのか。死は、生は、どのように規定されうるのか。それとも、そんなものはいらないのか。『ディアスポラ』では、そうした本質的なアイデンティティ、存在そのものへの問いかけがある。

WWシリーズはまだそこまでの問いには到達していないが、すでにその入口にはきている。まだまだ3巻、Wシリーズから考えると随分遠いところまできてしまって、この先どのような境地をみせてくれるのか、楽しみで仕方がない。

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)