基本読書

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自然界に存在する準結晶を求めた、科学者の大冒険──『「第二の不可能」を追え! ――理論物理学者、ありえない物質を求めてカムチャツカへ』

2011年のノーベル化学賞を受賞したのは準結晶の発見をしたシェヒトマン博士だった。「準結晶」とは、説明が難しいのだけど、純粋な結晶ともランダムな構造を持つ非晶質とも異なる、(準結晶の発見以前からすると)新しい結晶の構造のことである。それまでの結晶学の常識では、どの鉱物を調べても、基本的な構成要素は四面体か、三角柱か、平行六面体のいずれかであり、それ以外はありえないと思われていた。

たとえば、単純化して考えると、三角形、長方形、平行四辺形、正方形、六角形のタイルは平面に隙間なくタイルを敷き詰めることができる。だが、正五角形は隙間なくタイルに敷き詰めることはできない。三次元の結晶は二次元タイルよりも複雑になるれども、科学者は三角形、長方形などの周期的なパターンを「回転対称性(『物体を元の状態と比べて必ず同じに見えるような角度のぶんだけ回転して、三六〇度に達するまでの回数』」という概念でも分類する。こちらでは、規則的に繰り返す周期的結晶の回転対称性としては、1回、2回、3回、4回、6回だけしかありえない。

準結晶は、その「ありえない」を突破した存在である。シェヒトマン博士は偶然にも5回の回転対称性、正二十面体のパターンを発見し、ノーベル化学賞に到ったわけだけれども、シェヒトマン博士と同時期に、5回対称性に対して、「不可能ではないのでは?」と疑念をいだき理論面から研究を進めていた人物がいて、それが本書の著者であるポール・J・スタインハートである。スタインハートは理論物理学者で、インフレーション理論や宇宙は永久に膨張/収縮のサイクルを繰り返すというサイクリック宇宙論で有名で、僕もそちらで名前を知っていたから結晶学の分野でこんなおもしろいことをしていたとは本書を読むまでよく知らなかった。

理論物理学者の冒険

最初はこの「準結晶」がありえるんじゃないかということを理論的に追求していくスタインハートらだが、次第にその軸足は理論的に存在するか否かだけではなく、それが自然界に存在するのではないかという興味へと軸足がうつっていく。様々な調査を重ねるうちにどうやら自然界にもありそうだ、少なくとも、イタリアのフィレンツェの博物館に保管されていた結晶にそれを見つけた! と発見が続くのだけれども、それが本当に自然界に存在したものなのかどうかという確証がなかなかとれない。

というのも、その結晶が博物館に存在したのは確かだが、それが元々発見された場所もよくわからないし、発見された場所が定かではないと自然に存在するものではなくて、人造のまがい物である可能性が捨てきれないのである。しかも、その「自然界にあった」とする結晶には金属アルミニウムを含んでいて、そんなものが自然界で見つかったことはないといって、専門家から凄まじいダメ出しを食らってしまうのだ。

そこで、スタインハートらは必死にそれがどこからやってきた鉱物なのかを調査し、怪しげな鉱物ブローカーや怪しげな旧ソ連の研究所所長で現在はイスラエルに亡命した怪しげな学者とコンタクトをとったり、結晶の元の持ち主であった亡くなった人物の秘密の日記を奥さんに頼み込んで見せてもらったり……、最終的には実際に自然界に存在する準結晶を採取するんだ! と資金を集めてチームを組んでカムチャッカに旅に出る──と、高齢の理論物理学者とはとても思えない冒険に出るのである。

本書にはノーベル化学賞が授与されるほどの準結晶についての理論的な解説も(第一人者であるから当然)がっつり書いてあるが、それだけでなく純粋に「科学を探求するおもしろさ」、科学者の冒険譚が存分に描きこまれているのである。特に本書の終盤は、実際にカムチャッカに旅立って、たいした確証もなく、ただし最大限準結晶が採取できるように様々な仮説を立てながらコツコツと結晶を採取する(準結晶かどうかは専門の装置が必要で、その場で確かめられないので、あたりをつけて採取して帰るまで正しいものをとったかわからない)作業をすすめるパートを読んでいるときは、科学書を読んでいるというより、冒険譚を読んでいるように盛り上がっていた。

カムチャッカで鉱物を採取したらそれで終わりではなくて、サンプルが税関を通過できるかわからないので、チームのメンバーが異なる5つのルートに分かれて地元へ帰り、その際にはどのセットにも12箇所の採掘地点の袋がそれぞれ最低一個は含まれるようにするなど、何も危険だったり明らかに違法なことはしていないのだが(米国に土を持ち帰るのは違法だが、彼らが持っているのは理屈上は土から分離されたものであって、土ではない)、緊張感がみなぎった展開が続くのもおもしろい。

第二の不可能

書名になっている「第二の不可能」とは、おそらくスタインハート独自の概念で、「1+1=3のように絶対にありえないこと」を第一の不可能とした時、「必ずしも正しくはないかもしれない前提にもとづく主張」のことである。たとえば、今回は、結晶は5回対称性をとれない、物体の中で原子の配置は必ず周期的かランダムのどちらかになるというのが定説だったが、それは単なる経験則からくる「第二の不可能」であった。周期的でもランダムでもない、準周期的な配置が存在するのである。

「あなたが『不可能』と言う場合……1+1=3みたいな不可能のことですか? それとも、とんでもなくありそうにないということですか? そしてもし実在すれば、とんでもなく興味深いのでしょうか?」

自然界には金属アルミニウムを含んだ結晶など存在しないというのもこの第二の不可能だった。スタインハートは自身の探求の過程で、幾度も「君の言っていることは不可能だ」と言われるが、そのたびに上記の引用部のように反論したり自問し、答えが後者であるのであれば、決して諦めずに粘り強くその可能性を追求してみせる。

 だが私はグレンの主張に流されなかった。そうした主張は皆、合理的だが、実は立証されていない、さまざまな科学的仮定にもとづいていた。それに、グレンは自分の主張を支持する証拠をたくさん示していたが、どの証拠も、本質的に過去にみられたものであって、将来新しいものが見つかる可能性がないことを証明してはいなかった。

宇宙物理学と結晶学という離れた分野で革新ともいえる発見をしているスタインハートだから、そのスタイルには大発見をするための理が含まれているのだろう。

おわりに

スタインハートらが見つけた鉱物は、酸素同位体の比率から宇宙から隕石として降ってきたものだということがわかっている。そうすると今度は、それは宇宙の、どのタイミングで、どこでどのようにして生成されたのかといった疑問が湧いてくる。地球に降り注いだ隕石の母体の小惑星を突き止め、表面に降りてサンプルを集め、それに含まれるあらゆる鉱物の化学組成を調べる──スタインハートは当然、そうしたことを突き止めることを第一の不可能に分類したりはせず、今もその探求の途上にある。

科学において、ある大きな発見はこのように、さらに大きな謎や疑問を発生させるものだ。本書は、そうした「新たな謎の提示」まで含めて、十全に科学の醍醐味を伝えてくれる一冊である。非常におもしろかった。