基本読書

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物理学に美しさは必要か? という根本的な問題提起──『数学に魅せられて、科学を見失う――物理学と「美しさ」の罠』

物理学者は、自然法則の中に理論の自然さや美しさ、対称性、単純さ、統一性を求める。それは、自然法則はエレガントでシンプルなものであるべきなので、それを判断基準にすべきだ、という思想があるからだし、現在の素粒子物理学の世界は簡単な実験は終わってしまって難しい実験ばかりが残り、仮説を考えようにもデータがなく「自然さ」や「美しさ」といったとっかかりが必要だからという背景もある。

しかし、美しさや単純さは主観的な価値観であり、物理法則とは無関係だ。科学は芸術ではないし、人間の自然さの感覚に沿う理由も存在しない。ではなぜ科学では「自然さ」や「美しさ」が重視されているのだろうか。本書『数学に魅せられて、科学を見失う』は、まさにそうした「美しさ」と「物理学」をめぐる状況について書かれた一冊である。数式が出てくるわけでもなく、専門的な話はあるものの平易な言葉で書かれていくので、この分野に興味がある人には気軽にオススメしたい。

問いかけられていく話題は、多岐にわたる。たとえば、現代の物理学がいかに美意識に頼って研究を推進しているのか。物理学における美しさとは何なのか。それを使って仮説を求めるのは、客観的であるべしとする科学者の義務に反しているのではないか。美しさに変わって理論を評価する基準をどう考えればいいのか。高エネルギー物理学の研究の世界についてなどなど。特に、現代物理学が主観的な「美しさ」「自然さ」を基準に、検証もできない恰好がいいだけの理論──多宇宙論や未知の素粒子の提唱などを乱造してきたことについて、かなり批判的な論調で展開している。

 これらの隠れたルールは、私たちにはまともな成果をもたらしてこなかった。私たちは新しい自然法則をたくさん提案したが、そのいずれもまだ確証されていない。そして、自分が稼業として携わっている分野がいつのまにか危機的状況に陥っているのを目の当たりにしながら、私自身も個人的な危機に陥った。私はもはや、私たちがここ、すなわち、物理学の基盤的領域で行っていることが科学なのかどうか、確信がもてなくなっている。そして、もしもそれが科学でないなら、こんなところで時間を無駄にしている理由などあろうか?

ここまで大きくをぶち上げているわけだから、著者もサイエンス・ライターではなく、様々な研究所を渡り歩いてきた、著名な理論物理学者であり、原書刊行時も大きく話題を読んだようだ。「科学における美しさとは何なのか」や「データもなく実験もできない中で研究を前進させるためにはどうしたらいいのか」という科学哲学の観点からも興味深い本で、夢中になって読んでしまった。これを読むことで素粒子物理学界隈で起こる新たな発見のニュースなどの見通しも、ぐっとよくなるはずだ。

超対称性と自然さについて

本書では多宇宙や弦理論をはじめとしていくつかの理論が議論にあげられていくが、最たるものが超対称性だ。超対称性理論では、既知のすべての素粒子に未発見のパートナーが存在すると仮定することで、現状よくわかっていない事象や不自然な数値を自然に説明できるようになる。たとえばヒッグス粒子は量子ゆらぎの効果を受け、理論的な質量が実測値の10の14乗倍になってしまうのだが、超対称性の概念を導入するとこの数字の差をうまく説明できる。この理論が証明されれば、宇宙を満たす正体不明の暗黒物質の謎も解ける可能性があり、何年も前から大きく期待されてきた。

それが存在すれば、すべては美しく整合性のある形で説明される。だが、何百人もの物理学者が超対称性理論の証拠となるパートナー粒子を探しているにも関わらず、検出されたことがない。近年、超対称性理論に否定的な結果が積み上がり、崖っぷちの理論と言われているが、これについて、フェルミ国立研究所のダン・フーバーは、次のように書いている。『超対称性の背後にある考え方は、あまりに美しく、あまりにエレガントなので、私たちの宇宙の一部でないはずがないのだ。超対称性は、あまりに多くの問題を解決し、私たちの世界にあまりに自然に適合する。これらの筋金入りの信者たちには、超対称性粒子はひとえに、存在しなければならないのだ。』

超対称性は「美しく、エレガントで、多くの問題を解決してくれる。」。それは結局のところ辻褄が合うように作り出されたもので、確かめることができないのであれば無意味である。だが、美しさゆえにその実在を諦められなくなってしまう。

私たちは極端に小さな数が嫌いなので、そのようなものを使わずに済む方法を発明した。もしもその方法が正しければ、新しい粒子が発見されなければならない、というわけだ。これは予測ではなく、願いである。にもかかわらず、このような議論が非常に広範に行われるようになったため、もはや素粒子物理学者たちは何のためらいもなくこのように論じるのだ。

実験が難しく、確かめられない理論ばかりが増えていく

そもそもなぜ実験で検証もされていない理論が増え、支持されているのかといえば、高エネルギー物理学自体が成熟してきたことも関係している。積み重ねが大きく、実験的にも理論的にも簡単なことはやってしまったので、数十年という時間、数十億ドルの資金がなければ実施できないような難しい実験ばかりが残っていく。

実験は難しく、新しいデータはでなくなる。一方で理論の構築は安価で済むので、研究者の職の維持のためにも量産される。美しいが検証するのは難しい理論はすぐに否定されることもないので、現在の学問の世界では構造的に評価を受けやすい。弦理論の研究者のポストがどの大学の物理学科にも2、3維持されているのも、純粋に理論的な研究で、安上がりで成果も出やすいからだ、というフリーマン・ダイソンの意見も本書では紹介されている。『弦理論が魅力的なのは、それが職に結びつくからだ。では、弦理論にそれほど多くの職が提供されるのはなぜだろう? それは、弦理論が安上がりだからだ。』

乱造される理論にたいして、検証する価値があるのはどの理論なのかを、何らかの手段で選択しなければならない。『今日の基礎物理学の問題のほとんどは、データとのあいだに生じている緊張ではなく、哲学的な腑に落ちなさで、この不快感の根っこに迫るには哲学が必要だ。』本書は、こうした大きなテーマにも踏み込んでいく。

おわりに

このような同族批判の本を出すことは相当な勇気と代償を必要とすることはいうまでもないが、それだけの覚悟をして書いていることが描写の端々から読み取ることができる。ただ、本書には著者の言葉だけではなくて他に数多くの著名で最前線で研究を行っている研究者らへの取材も含まれていて、みな多かれ少なかれ今の物理学の研究の在り方に疑問と不安をいだいていることがわかる。戦っているのは、著者だけではない。根本的な問題提起が行われている、非常に重要な一冊だ。